「秒速5センチメートル」を通して見る、初体験の輝きと追憶
久しぶりにリバイバル上映で「秒速5センチメートル」を鑑賞した。人は初めて出会った美しいもの、輝きにずっと囚われ、その後はその感動を探し求め続けてしまう。恋愛に限らず、人生のあらゆる局面でこのような傾向があるように思える。
例えば、私自身、桜の季節になるとかなり強い欲求に駆られて花見に行くのは、過去に感じた感動を追い求めているのかもしれない。大学生の時、ある飲み会の後に大久保公園で見た夜桜の体験は、今でも超えられない思い出として残っている。
「秒速5センチメートル」の各シーンには、一種独特の美しさがある。遠くに輝く海のきらめき、電車の窓の縁の金具の輝き、ゆらゆらと音もなく落ちてくる雪。これらはすべて、写実的な表現というより、彩度が高く、反射光も強めに載っている、いわば「盛った」表現になっていると言う声もある。
しかし、そのような非現実的な表現にもかかわらず、私たちはどこかで見たことがあるような感覚を覚える。これは一体なぜだろうか。その答えは、新海誠作品に描かれている美しさが、私たちが初めてそのものの美しさを体験した時の印象を反映しているからではないだろうか。
私たちは、初めて目にした美しい景色や事物に強い感銘を受ける。そのとき感じた感動は、鮮明に記憶に刻み込まれる。新海誠監督は、そのような初体験の感動を、映画の中で巧みに表現しているのではないだろうか。だからこそ、私たちはその非現実的な美しさに、どこか見覚えがあるような感覚を抱くのかもしれない。
新海誠作品に感じる美しさの本質は、私たちが初めて体験した感動の記憶を呼び起こす力にあるのではないか。それは、リアルではないからこそ、私たちの記憶に刻み込まれた感動により近づくことができる、特別な表現なのかもしれない。
「秒速5センチメートル」は、ストーリーだけでなく、絵やテーマ曲(山崎まさよしの「One more time, One more chance」)などが一貫して、普遍的な人間の性質を表現している。私たちは初めての体験の輝きに魅了され、その感動を追い求め続けるが、それは必ずしも良いこととは限らない。しかし、だからこそ、この作品は強い印象を残すのだ。
また、この映画自体が、強烈な「新海誠」体験になっている。その結果、新海誠の新作が公開される度に、私は映画館に足を運んでしまう。それは、この「秒速5センチメートル」で味わった初体験の感動を、再び追体験したいという欲求なのかもしれない。
(この文章は、映画をみて思いついた、とりとめのないメモを、生成AI claude3にエッセイとして清書してもらったものです)