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【ウクライナ危機】“訳知り顔”はもうやめよう
報道部門、それも外信部系部門が長かったので、このウクライナ危機に非常に注目している。
以前も書いたが、とにかくロシアによる今回の侵攻は歴史に残る暴挙で、21世紀の国際秩序はここを起点に大きく乱れていくだろうし、日本だけが無傷でいられるわけがないと危惧している。大袈裟ではなく、これは歴史の転換点になるだろう。
当初ロシア側は「攻撃目標は軍事施設に限定している」としていたが、もちろんそんな欺瞞を信じる者は誰もいない。あきらかに民間施設とわかる建物が攻撃されている映像がどんどん入ってくる。
断続的に行われているロシアとウクライナの“停戦協議”も、「民間人を退避させるための人道回廊」が実質的な焦点で、これひとつ見ても戦闘は「点」から「面」に広がっていることが明白だ。
ニュース映像では、ウクライナから避難してくる人のようすが映る。国連難民高等弁務官事務所は「その数は150万を超えて、第二次世界大戦以来の危機だ」としている。
ニュースを担当していた際は、悲惨な映像ばかりを強調するテレビのVTRの作り方に違和感があった。そこには「可哀想な映像を見せれば視聴者が食いついてくるはずだ」という浅ましい根性が透けて見える。「しっかりモノゴトの本質をとらえて伝えることが先決ではないのか」と思うのだ。
それでも今回の侵攻では、攻撃で我が子を失った母親のようすや、ウクライナから泣きながら逃げてくる子どもの映像に心がざわめく。戦争を始めるのは指導者層だが、それによって悲惨な境遇に追い込まれるのは常に一般市民。これもまったくの「本質」で、“訳知り顔”をしてこれを当たり前のように捉えていいわけがない。
太平洋戦争終戦からことしで77年。「戦争を語り継ぐ」ことの大切さをいくら強調されても、実際に体験した世代がどんどん少なくなれば、日本人の記憶も置き換わっていかざるを得ない。ウクライナ市民の苦境をどこまで自らの危機感としてとらえられているだろうか、と自戒を込めて思う。
三木谷浩史社長が個人として10億円(!)を寄付すると表明した楽天は、ホームページ上に「クラッチ募金」のリンクを置いた。それなのに、日本のテレビ局はウクライナ支援の募金の呼びかけを始めているところを見かけていない。国内の災害では素早く募金を呼びかけるのに、この違いはどこにあるのだろう。
国際政治は冷酷さをむき出しにすることを改めて突きつけてきた。「歴史の転換点だよなあ」などと冷静に“分析”しているだけでいいのか、というもどかしい思いにとらわれる。
反戦デモに参加して声をあげる、ウクライナのために寄付をする・・・なんでもいい、なにか自分ができることをはないのだろうか。
(22/3/7)