「書かない勇気」も、大切だ。
出会うべくして、出会った本だった。
ああ、意を決して書き始めたのに、まだ覚悟が足りない。動悸がする。
この本に恥じない言葉を綴れるだろうか?って。
だけど私は、決めたんだ。
今日は誰のためでもなく、自分のために書いている。
何年後、何十年後も、この文章を拠り所にして、死ぬまで文章を書き続けるために。
隣では息子が、静かに眠っている。
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「読みたいことを、書けばいい。」
なんて、甘美な響きだろう。
読みたいことなんて、いっぱいあるんだ。自分が思うがままに、書けばいい。
きっとそうやって、背中を押してくれるんだと、勝手に期待した私は。
そんな甘い考え、切って破って粉々にして、焼却炉で燃えかすにして、千の風にしてしまいたいと思っている。
誰かが書いてくれるなら、読み手でいればいい
退路を絶たれるとは、まさにこのことか。
既に誰かの手によって、自分の読みたいことが書かれているのであれば、それは読み手でいればいい。
その通りである。
SNSによって、人類総書き手時代が到来した。
いくらデータが海のように貯められるからといって、わざわざ藻屑を増やさなくていい。透き通った海を、汚すなかれ。
これは、「書かない勇気」なんだって、思った。
ちょうど1年前、noteを100日間更新し続けたことがあったけど、その中にはきっと、いや絶対、既に誰かが書いてたことがあったはず。
私には、「書かない勇気」が足りなかった。
あの頃のnoteを、私はほとんど読み返していない。
自分が面白くなきゃ、誰も面白がってくれない
100日間更新し続けた頃、確かに「言葉」は私のそばにあるような感覚があった。きっと、毎日文章を書き続けていたからだろう。
だけど、1日1記事を更新しなければならないと勝手に自分で決めつけたもんだから、自分が面白がってない文章を量産してしまった。
「読みたいことを、書けばいい。」
これのなんと難しいことか。
面白いか面白くないかなんて、自分が一番よく分かってるんだよ。本当は。
自分の目は、ごまかせないんだ。本当は。
あの頃は、それすらもわからないくらい、必死だった。
今ならわかる。
自分が面白がれないなら、書かない勇気を持つべきだ。
ファクトと自分語りのバランス
最後のキスはタバコのflavorがした ニガくて切ない香り 明日の今頃には あなたはどこにいるんだろう 誰を想ってるんだろう
大好きな宇多田ヒカルの歌詞。
たくさんの人が、「これは自分のための歌だ」だと、心を動かされる。
タバコのflavorという事象が、明日の今頃のあなたを思う心象に、説得力を持たせている。
「読みたいことを、書けばいい。」は、エッセイ(随筆)を書く人のための本だ。
本の中で随筆は、「事象と心象が交わるところに生まれる文章」だと定義づけられている。
事象はファクト、心象は自分語りだ。
例えば宇多田ヒカルの歌詞がファクト寄りだったら、
彼はタバコを吸ってた。最後のキスもタバコの香りがした。明日の今頃、彼はどこかにいる。
そりゃそうだろうねってなる。え、失恋したの?大丈夫?悲しいのか悲しくないんだかわかんないんだけど教えて、ってなる。
今度はもし、自分語り寄りだったとしたら、
私が人生で一番好きだった彼、タバコが好きでよく吸ってたから最後のキスはタバコの香りがした。すごいニガくて切なかった。明日の今頃、彼はどこにいるんだろう、誰を想ってるんだろう、考えるだけで涙が止まらなくて死にそう誰か助けて
…ちょっと後半部分は私の主観が入ってメンヘラ気味だけど、まあうざい。勝手に失恋して泣いてくれ。でもってこういう奴ほど、「次の彼氏が人生で一番好き♡」とか言うんだよな。
じゃあこの私の文章は、ファクトと自分語りが、相互補完し合ってるだろうか?
どちらかでしかないのなら、そんなゴミ屑はネットの海に放り投げてはならない。
※ちなみに、"最後のキスがタバコのflavor"なのが良いのであって、餃子でも焼肉でもミントガムでももちろんダメだし、キスがハグでも握手でもダメなんだよ多分。どのファクトが自分語りを補強してくれるのか、徹底的に調べること。「調べる」が物書きの9割9分5厘6毛なのだ。
それでも書くなら。人の言葉を借りるな
中学生の頃に、憧れた友達がいた。
独特の感性を持っていて、中学生とは思えないほど大人びていた。
誕生日を迎えた私への手紙に、こんな言葉を添えてくれた。
「お誕生日おめでとう。はるぽんにとって、この一年が素敵な年になりますように。」
中学生にして初めて、もらった言葉だった。ただただ感動した。
彼女の言葉は、真っ直ぐで、人の心を動かす力があった。
自分の言葉が借り物で、軽くて、誰の心にも届かないことをまざまざと見せつけられた私は、思えばあの頃から"自分の言葉"を探していたように思う。
「読みたいことを、書けばいい。」
私はこのnoteを読むであろう私の喉元に、ナイフを突きつけている。
自分の言葉で、語れているだろうか?
最後は「愛だろ、愛っ」
著者の田中泰延さんは、電通でコピーライターを24年間やっていた。
広告制作は、対象に本気で恋をするつもりで臨むという。
文章も同じで、対象を愛し、感動した気持ちを全力で伝えるのだ。
私は言葉に、文章に、恋をしている。ずっと片思いだ。きっとこれからも。
だけど、それでいい。
病めるときも、健やかなるときも。
一生この人と、添い遂げるんだ。