【30日目】はっそうりょく の おはなし【知識力】
この日記も無事、30日目を迎えました。
第一目標クリアーといっても良いでしょう。
ここからは次の目標日数を出してもいいし、なんだかんだ習慣化は徐々に出来てきつつある気もするので、(ああああもう!)と思うまでは、毎日投稿は続けたいと思います。
かと言って、30日目に相応しいネタ、と言うことも特に思い浮かばないので、いつも通り、サクッと終わらせましょう。
【30日目】はっそうりょく の おはなし【知識力】
世の中に、クリエイターと言われる人々はごまんと居ますが、
その中でも眼を引く作品や、これは参った!と思わせるようなアイデアを出せる人が居ます。
その「発想力」と「実現力」は計り知れなく、
発想では、全くの無から生み出されるもの意外は、既知の情報の組み合わせや応用になり、
実現では、これまでの知識や経験を駆使して、如何にカタチとするか、
だと思います。
いつも独創的な発想から、他者に真似の出来ないような作品を作り続ける人が居ます。
その作品の真意は、制作者にしか根幹部分までは理解出来ず、
(作者も何も考えておらず生まれるものもありますが)
どうしても受け手に委ねる部分が多くなると思います。
特に、メッセージ性の非常に、高い作品は、
一言で表現することが難しいモノだと思います。
(詩、絵画、音楽、映像、料理、建築ect...)
どんなに「これはよい作品だ」と言われても、伝わる人とそうでない人が存在することは当然です。
すべてを理解することは”是”ではないと考えます。
また、理解したとして「感想」を述べることがすべてでも無いと。
『わかった』『理解した』ということは、自分の中、範疇、自身の言葉、知識の中に入れ込んでしまうことで、
受け取ったものを自己で噛み砕き、飲み込み、表現として吐き出せるからこその『理解』であり、
受け取った作品のイメージが、自身の中に無い場合、自分のイメージとして吐き出せない場合も、その作品の”味”になるのではないでしょうか。
ただし、これは受け手としてはとても解釈の扱いが難しく、
「理解出来ない」から「批判してもいい」わけでは決してありません。
理解出来ないことも、認める必要があってもいいのでは、と。
作品から何かを感じ取り「理解出来た!」と思っても、それを言葉として綴らない方が、いい場合もあると思います。
「兄貴の覚悟が!『言葉』ではなく『心』で理解できた!」
と、知り合いのパイナップルもよく言っていました。
再三言っている気がしますが、好みは別です。
美術作品に、ややイメージが偏ったお話でした。
【おわりに】
感情、意見の共有交換という意味合いでの話では、また別です。
感想を言い合うのは、とても、とても楽しいことなので。
すごくライトな所で言えば、友人と映画を見終わったあとは、近くの喫茶店で感想を言い合いたいです。何時間だって話せた時もあります。
ちなみに、今回のコレは、
私はとある絵画をずっとイメージして話しております。
とても独特な表現の戦争の絵画や、もっともっと抽象的な、黒塗りの叫びのような絵です。
ナニモノにも負けないよな作品のパワーを感じることで、
少しずつ、心の引き出しを増やして行きたいですね。
それでは、おやすみなさい。
よい作品を。
。
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