美術史第43章『ネオダダとポップアート-前編-』
戦後の世界ではアメリカの大都市ニューヨークを中心に発達したさながら落書きのようなスタイルの「抽象美術」が評価されていたが、その一方で、抽象表現主義の「具象的なテーマの否定」を否定し、現実を描くという美術へ復帰を行う「ネオダダ」や「ポップアート」と呼ばれる様式も50年代後半の頃から徐々に登場することとなった。
「ネオダダ」とは1950年代後半のアメリカに登場した不条理性や伝統的な芸術・美術を否定するという思想を特徴がある様式であり、かつてマルセル・デュシャンが提唱した特別でない既製品を使用するという「レディメイド」という手法や大衆的な図像の流用して立体作品を作る「アッサンブラージュ」、そして様々なものを切り張りして平面作品を作る「コラージュ」・「パピエ・コレ」のやり方を多く行なった。
ネオダダは既存の価値全てを否定・攻撃・破壊する、戦間期のニヒリズムから生まれた「ダダイスム」もとい「ダダ」と呼ばれた文学・芸術運動と同じような思想の元で作品を作っている流派であるといえ、そのため、ダダイスムに準えた評論家達によって新しいダダを意味するネオダダと名付けられることとなった。
このネオダダの流派の中ではロバート・ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズという芸術家が特に重要であるとされており、ラウシェンバーグは後のポップアートブームの中でも重要となる。
また、アメリカのネオダダと似た傾向の運動は各地で同時多発的に発生していて、同時期のフランスではアルマン、セザール、クリストなどが活躍しており、1960年にはイヴ・クラインを中心に先述したアルマン、セザール、クリストの他、著名なジャン・ティンゲリーやニキ・ド・サンファルといったネオダダ的なフランス美術家を集めた「ヌーヴォー・レアリスム」が起こされた。
ネオダダの傾向の運動の芸術家たちの多くは廃棄物をかき集めた「ジャンク・アート」を作り、工業社会を"自然"として、そこに"美"を見出そうとする芸術家が多く活躍、この、ジャンク・アートの手法はネオダダ様式最大の特徴であるといえ、ラウシェンバーグなどが多く行なった事により現在でも良く作られるようになっているなどネオダダの影響はある程度、現在まで残っているといえる。
一方、ネオダダなどと同時期に出現した「ポップアート」という様式はネオダダと似ているが、それとは異なり大量生産・大量消費の社会をテーマとして表現するために、雑誌や広告、漫画、報道写真などの素材を扱うという芸術運動である。
背景として第二次世界大戦後の先進国では全ての人間が大量生産の製品に囲まれそれを消費しながら生き、テレビや雑誌などのメディアでその広告を見続け、聞き続けるという生活を送くるようになっており、ポップアートはこのような下世話な製品やサブカルチャー・生活様式を批判する目的を持つ場合も、それらの製品や生活を農村や山、海と同じ「風景」と捉えて描いており、商品や広告を親しみ深い風景の一部として風景画として描かれる場合もあった。
ポップアートの様式の属す美術はまず1950年代半ばにイギリスのロンドンで盛んに行われるようになり、中でもポップアートブームの先駆けとして有名なエドゥアルド・パオロッツィは戦後すぐに戦争の中でイギリスにやってきていたアメリカ軍が持ち込んだアメリカの雑誌の切り抜きでコラージュを作っていた。
この時代は戦争で疲弊し植民地は次々と独立、世界帝国だったイギリスが崩壊した時代であり、新たに超大国となったアメリカの文化はイギリスに急速に浸透、広告、SF、漫画、大衆音楽などが英国の若者を夢中にさせており、そんな中で1952年には芸術とそのような大衆文化の関係を模索するパオロッツィなどの若い芸術家が集まったグループが誕生した。
同年にはリチャード・ハミルトンがポップアート的な作品を出展し、「イギリスのポップアート」は後に20世紀イギリス最大の美術家となるデイヴィッド・ホックニーなどポップアートの若い芸術家が多く出展した1961年の美術展で最盛期を迎え、以降のポップアートはアメリカに中心を移してネオダダの後に大きな発展を遂げることとなる。
そして1950年代末にアメリカのニューヨークで、ネオダダが開始すると先述の通り、ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズらは廃棄物や既製品のガラクタなどや標識、数字、旗の図柄など有りふれたイメージを使うなどを行うという「ポップアート」と同様の手法を用い、彼らのネオダダとポップアートは当時、主流だった抽象表現主義の理想を破壊するもので、ネオダダとポップアートは同じような技法で伝統的な美学や芸術を否定したと言え、結果、その両者の様式は非常に似通ったものになっている。
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