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シルクロードの歴史20『シルクロードと宗教-ユダヤ教編-』
*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。
*次回でシルクロードの歴史シリーズは終了となります。
1. ユダヤ教の誕生と拡散
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ユダヤ教は前11世紀頃に中東の海岸に栄えたイスラエル王国という国の人々の宗教を元にした宗教で、イスラエル王国は前10世紀に北イスラエルとユダに分裂し、8世紀には北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたものの、ユダはエジプトの支配下に入ってやり過ごした。
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しかしユダも前6世紀には新バビロニア帝国に滅ぼされ「バビロン捕囚」という新バビロニアの中心地であるバビロニア地方への強制移住が行われ、その50年後には新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされた事で、ユダの人々、ユダヤ人は解放されかつてユダ王国があった地に戻ったとされ、このバビロン捕囚の中で現在のユダヤ教の教義が出来上がったとされる。
しかし、50年という時は長く、ユダの復興は行わずバビロニアに留まったりアケメネス朝ペルシアの領内の各地に移住したりするものも多かった。
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ユダに戻ったユダヤ人はその後、ギリシア人のセレウコス朝の支配を受けるが前2世紀に独立、しかし前1世紀にはローマの属国となり、2世紀頃にはローマに対しユダヤ戦争を吹っ掛け敗北、都エルサレムへの立ち入り禁止などの処置がとられユダヤ人は中東・北アフリカ・ヨーロッパにまたがるローマ領内に散っていった。
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ユーラシアから北アフリカに広く住むようになったユダヤ人たちは商人として「Radhanite」と呼ばれる組合のようなものを結成、ローマが整備した交易路を用いて貿易を行い、8から10世紀頃にはイスラム教徒でもキリスト教徒でもない存在として、両方の地域を行き来する事ができたため、アジアとヨーロッパをつなぐ存在として機能した。
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また、同時期には黒海からカスピ海の北側にフン族の一派サビル族が建国したハザール可汗国、中国側の資料でいう突厥可薩部という遊牧民の大国が存在しており、このハザールはなぜかユダヤ教を国教としていて、ビザンツや中国とのシルクロードでの交易活動で繁栄している。
2. 各地のユダヤ人たち
現在ユダヤ人には、アシュケナジムというドイツ語の一種である中部ドイツ語にユダヤ人のヘブライ語が混ざったイディッシュ語を話す東欧・中欧・西欧のユダヤ人が一千万人以上、セファルディムというスペイン語にヘブライ語が混ざったラディーノ語を話すイベリア半島を九限とするがイタリア半島・バルカン半島・アナトリア半島・北アフリカなどに分布していたユダヤ人が二百万人以上と、この二つが主流である。
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その他に、ローマ帝国のユダヤ人の子孫としてギリシア語にヘブライ語が混ざったイェヴァン語を話すギリシアのロマニオットや、イタリア語にヘブライ語が混ざったイタルキ語を話すイタリア・ユダヤ人、ハザールの子孫としてクマン語にヘブライ語が混ざったカライム語を話すクリミア・カライム人とカライム語と非常に近いクリムチャク語を話すクリムチャク人、アケメネス朝ペルシアに散ったユダヤ人の子孫としてペルシア語の一種ブハラ語を話すブハラ・ユダヤ人とユダヤ・ペルシア語を話すジーディ、タート語の一種ユダヤ・タート語を話す山岳ユダヤ人、アラム語の一種デニ語・ディダン語・ノシャン語を話すクルド系ユダヤ人、グルジア語の一種グルジン語を話すグルジーム、チュニジア・モロッコ・イエメン・イラク・リビアのアラブ系ユダヤ人、モロッコのベルベル系ユダヤ人などがいる。
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また、昔はチェコ語の一種クアナン語を話すスラブ系ユダヤ教徒や、カタルーニャ語というフランス語とスペイン語の間にあたる言語の一種カタルーニャ語を話すカタラニート、フランス語の一種ユダヤフランス語を話したフランス北部からドイツ西部のツァルファティート、アルピタン語の一種シュアディート語を話したフランス南東部のシュアディートなども存在した。
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また、インドにはベネ・イスラエルと呼ばれるユダヤ人の集団が、マラーティー人が暮らすボンベイ周辺とマラヤーラム人が暮らすコーチン周辺にかなり古くから存在しており、他にもインドには18世紀にイラクからやってきたバグダーディ・ユダヤ人も存在するが関係はなく、エチオピアにもベタ・イスラエルという人々が存在しており、古代には独自の国家を築いていた記録が残っている。
3. 中国のユダヤ人
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そして、最も東のユダヤ人は中国の開封のユダヤ人で、長い歴史の中で儒教思想の影響を受けており、少なくとも10世紀より前から開封に暮らしていたと思われ、17世紀頃にマテオ・リッチと接触した事で知られるようになり、その時点では杭州にもユダヤ人が暮らしていた。
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現在、開封のユダヤ人は数百人から千人程度しかおらず、明の時代に皇帝よりユダヤ人に授けられた艾、石、高、金、李、張、趙という苗字を持つという文献があったが詳細は分からなかった。
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また、開封にはユダヤ人に関する三つの碑文が発見されているとされ、1つ目の碑文には漢王朝時代にユダヤ人がインドから来た事、宋の時代に70名の中国系ユダヤ人が皇帝に謁見した事、旧約聖書の内容などが記録されているとされる。
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二つ目の碑文にはユダヤ教の儀式などの宗教的な様々な行為が記録され、三つ目は一つ目と二つ目の碑文が一緒に書いてあるもので、二つ目の碑文には「盡忠報國」という祖国に対する強い忠誠を意味する表現で、岳飛の軍に参加し戦った開封のユダヤ人の様子が記されている。