美術史第76章『中国の先史美術-中国美術4-』
黄河流域では農業を行う新石器時代が紀元前7千年頃の「裴李崗文化」から開始し、その後、いくつかの文化の時代を経て紀元前4800年頃から2500年頃に陝西省、山西省、河南省にかけての地域に「仰韶文化」と呼ばれる文化が誕生した。
この仰韶文化は狩猟と漁業を中心に農耕や家畜の飼育などの農業も行なっている段階で、ここでは先史中国の美術の代表格と言える「彩陶」と呼ばれる表面に赤、黒、白で渦巻や波状の模様を描いた手捏ね土器が作成されており、また、ほぼ同時期の紀元前4100年頃から2500年頃には山東省を中心とした広い地域に「大汶口文化」が存在し、ここでも初期に彩陶が作られている。
紀元前3100年頃から2700年頃には仰韶文化が西の甘粛省や青海省に伝わって誕生した「馬家窯文化」という文化も彩陶を数多く作っており、絵画の分野では西安で見つかった仰韶文化の「半坡遺跡」で円形の集落や大量の農機具や狩猟具、半坡文字という文字らしきものと共に黒い線で魚や顔を描いた原始的な美術が発見されている。
ちなみに、黄河流域の黄河文明の他にも中国には古代文明が複数存在し、中国北東部の遼河流域では「紅山文化」をはじめとする「遼河文明」が生まれ、東洋の「龍」という概念や翡翠の製品などはここで誕生したと思われ、農業が行われ大きな都市も築かれていた。一方、中国南部の揚子江や長江と呼ばれる川の流域では「長江文明」が形成されていた。
長江文明では前7000年頃に水田稲作が「彭頭山文化」にて開始、前5000年頃には下流域の海周辺で稲作を行う「河姆渡文化」が誕生し、紀元前45世紀頃に始まった「大渓文化」で彩陶と大規模農業が行われ、前30世紀頃に始まった「屈家嶺文化」では黒陶が作られ、そこから生じた「石家河文化」では大規模な城郭を持つ都市が形成されていった。
そして、前33世紀頃には浙江省にて「良渚文化」が誕生し多数の翡翠製品や絹などが作られ、社会が分業し発展、高度な都市文明を築き上げられ、山東省を中心とした黄河文明の「大汶口文化」は後期になると長江と同じく漆黒のきめ細かい光沢のある土器「黒陶」が彩陶に代わって作られるようになった。
紀元前2500年頃に大汶口文化から「龍山文化」が誕生し華北一帯の非常に広い地域に広まると黒陶も広まり、三脚や取手など以前より複雑な形が生まれ、さらに翡翠製品や絹の生産が行われ始め、社会制度も発展するなど良渚文化との密接な関係を思わせるように発展を遂げ、良渚文化は前22世紀頃、龍山文化は前20世紀頃に消滅した。
黄河と長江が衰退した後の紀元前2000年頃には黄河の中流から下流の一帯にて「二里頭文化」と呼ばれる文化が登場、初期には農業を行い土器を作る新石器時代の段階だったが、途中からは金属で様々なものを作る青銅器時代の段階へ移行し、名前の由来にもなった二里頭遺跡では宮殿や大きな墓が建設されるなど王国が登場したと考えられ、一般的には記録上「夏」と呼ばれる王朝であると推定されている。
ここでは、「漢字」の元となった甲骨文字に似た未解読文字が占いに用いられていたこともわかっており、前1700年頃にはそれを引き継いだ「二頭岡文化」が誕生、大規模な都市が複数発見されており、これは歴史的な記録で言うところの「殷」もしくは「商」と呼ばれる王朝である。
またこの頃には四川省で記録で言う「蜀」と呼ばれる王国によると思われる「三星堆文化」が繁栄し、青銅器や翡翠製品が作られ、大型の祭壇や都市が建設され、美術の分野では特に巨大な頭の像や青銅製の目の飛び出した仮面のインパクトが強く、北方の遼河文明には殷王朝の人々が多く流入、前10世紀頃には遊牧民連合国家、歴史上で言う所の「東胡」の影響下置かれた。
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