美術史第23章『マニエリスム美術』
16世紀中頃、盛期ルネサンスの時代の中でアンドレア・デル・サルトという画家の弟子で、フィレンツェで活躍したヤコポ・ダ・ポントルモや、同じくアンドレアの弟子でフィレンツェ出身、戦争により移住した先のフランスの宮廷で活躍しフランスの宮廷美術フォンテーヌブロー派の始祖となったロッソ・フィオレンティーノなど、ルネサンス本来の目的である古典文化こそ完璧で復興すべきという考えではなく、ルネサンス美術の巨匠の作品を完璧とする考えを持って絵画を描く人々が徐々に出現した。
マニエリスムが生まれた背景としては序章で触れた美術史の始祖で「画家・彫刻家・建築家列伝」の作者、ミケランジェロの弟子でもあるジョルジョ・ヴァザーリがミケランジェロやダヴィンチ、ラファエロなどルネサンス美術の巨匠の作品こそ完成されたものであると唱えるなど、当時の人々から見ても盛期ルネサンスの作品のクオリティがあまりに高すぎた事というのも勿論ある。
ただ、マニエリスムが繁栄した理由としてはミケランジェロやラファエロがフィレンツェからローマに移動しフィレンツェの伝統から美術が解放された事、美術の発注が増加し多く作らならければならなくなった事などがあるとされ、このようなルネサンスの巨匠を模倣する美術の流れをマニエリスムと現在では呼ぶ。
マニエリスムではルネサンス盛期の美術を再解釈、結果、強調や歪曲が行われる様になり、絵画では遠近法や短縮法、明暗法など原理を抽象化、消失点の高低を極端な位置にした遠近法や奥行きがなく平面的な空間を描くなどして空間を歪めるなどの特徴が現れた。
マニエリスムは「創造性に欠ける」として否定的に見られる事も多いが、「洗練されていて技巧的」という面も大きく、この潮流は17盛期前半に増加、代表的な芸術家としては、「愛の寓意」の作者で、フィレンツェで活躍した画家アーニョロ・ブロンズィーノ、同じくフィレンツェでメディチ家の保護を受けて活躍した彫刻家・装飾師ベンヴェヌート・チェッリーニ、フランスのドゥエー生まれでフランドル地方の大都市アントウェルペンやローマで美術を学びフィレンツェで滑らかさや優雅さの強い様式を確立したジャンボローニャなどが活躍した。
マニエリスム美術はイタリアでは17盛期前半に広まっていったものだが、最も初期の16盛期前半にマニエリスム様式を用いたロッソ・フィオレンツィーノなどのイタリア画家がフランス宮廷で活躍した事で、「フォンテーヌブロー派」という画家グループがフランスで活躍したため、フランスにおいてはイタリアよりも早くにマニエリスム様式が広まった。
逆に北部イタリアの芸術の中心地ヴェネツィアでは他の地域より長く盛期ルネサンスの時代が続いたものの、ティツィアーノの弟子でマニエリスム的な要素を持ったティントレットが大きな活躍をしたことで、徐々にマニエリスム様式に傾いていった。
ティントレットの影響は当時、ヴェネツィア共和国が領有していたギリシャのクレタ島の中心都市カンディア出身でとっくに滅亡していたビザンツ帝国のビザンティン美術の画家で、同じくティツィアーノの弟子だったエル・グレコに大きな影響を与え、エル・グレコはこのマニエリスム様式を当時、アメリカ大陸の征服を続けていたスペイン王国に渡り多くの作品を残して伝えた。
一方、イタリアのパルマという都市ではパルマ最大の巨匠で硬い線や遠近法を駆使したきっちりとした構成、彫刻的な人体などを特徴とする画家アンドレア・マンテーニャの画風を継承したコレッジョが明暗の対比の強調や、ダイナミックな上昇表現を使った天井画など感情的な表現の絵画を多く描いた。
他にもヴェネツィアには「レヴィ家の饗宴」などで知られる幻想的な色使いで感情豊かな画風のパオロ・ヴェロネーゼという画家が活躍し、彼らは次のバロック美術時代の基礎となっていった。
また、マニエリスムの時代の最初、16世紀後期の建築分野では、パドヴァ出身でローマやヴェネツィアで活躍した、平面図で建築の設計を行ない最初のプロの建築家とも呼ばれるアンドレーア・パッラーディオにより、数値的な比に基づいて設計するという古代ローマ建築本来の建築を再現された様な「パッラーディオ建築」が確立された。
有名なマニエリスム建築家には他にもモデナ出身でフランスやイタリアなどで活躍したジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラやその弟子のジャコモ・デッラ・ポルタなどがおり、ヴィニョーラとポルタが設計した「ジェズ教会」の外観正面のデザインや、回廊やドームの下の明暗の対比などの要素はバロック美術の建築様式の基礎となった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?