美術史第8章『初期キリスト教美術-前編-』
紀元後2世紀末期から3世紀頃初頭、ローマ帝国を支配する地中海沿岸の広い地域にユダヤ属州のヘブライ人(ユダヤ人)の民族に信じられた唯一の神を信仰し、「我等ヘブライ人はその神に選ばれた民族である」という思想の「ユダヤ教」の宗教家ナザレのイエスが作った教団が作り出した「ナザレのイエスは世界を救うメシアだった」や、「全ての人は唯一の神を信じれば救われる」という思想を持つキリスト教がローマ帝国内で広まっていた。
これには、2世紀から3世紀頃のローマはセウェルス朝が崩壊し、軍人出身の数十人の皇帝が乱立して完全に独立するパルミラやガリアのような国まで現れる「3世紀の危機」という凄まじい衰退と混乱を迎え、当然、経済や政治は全て停滞、ローマ全体が貧しくなっており、これに人々が救いを求めたのか、教団内での相互援助で安定を手に入れようとしたのかは分からないが、貧民層や奴隷階級、中産階級が多く改宗、次第に上流階級もそれに合わせて改宗し、上流階級が大きな自宅で布教を行うなどして教会も誕生した。
これらにより各地にあったギリシア神話やローマ神話、エジプト神話、メソポタミア神話、北欧神話、ドルイド教など現地の宗教が急速に衰退しキリスト教が拡大したという背景があり、キリスト教は次第にヨーロッパや北アフリカ、中東などローマ領内全体で支配的な宗教となっていくこととなった。
このキリスト教が支配的宗教に成るまでの、言わば移行時期に発達したのが初期キリスト教美術で、ここでは救世主イエス・キリストの事績などが主に描かれており、美術の中心地としてはギリシア人の都市コンスタンティノポリス、ラテン人の都市ミラノやラヴェンナなどがあった。
また、キリスト教徒の死後の魂の救済を願う墓所の壁画などの絵画では、既に存在したローマやギリシアの絵画の宗教的な表現形式を、意味を別解釈にして取り入れており、キリスト教以前の美術の影響が強く、当時、偶像崇拝の禁止で直接描けなかったイエス・キリストを羊飼いや魚、祈る人、太陽などの象徴として描き表すなど、キリスト教独自の要素も持っていた。
しかし、それらの墓の壁画を描いていた職人達はキリスト教徒の墓なのか現地の宗教の信者の墓なのかなどは気にせず、発注通りに描いていただけと思われ、この時点では、独自のキリスト教美術は存在しなかったと言え、ローマ美術の絵画が写実的なものから象徴的な単純なものに変わるとキリスト教の絵画も同じく単純になった。
そして、313年に分裂状態にあったローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス1世によりキリスト教を国が公認する「ミラノ勅令」が発令され、キリスト教徒への迫害が止むと、教会などのキリスト教の制度が整った事などから、キリスト教の聖典である「旧約聖書」や「新約聖書」の物語をモチーフにした美術が制作され始め、絵画の内容もより豪華になっていった。
325年、初めての全キリスト教会規模でのまとまった会議であり、各地其々で教義に関して様々な解釈が生まれていた各地のキリスト教を集め、正しい教えを勝手に選出する、「第1ニカイア公会議」が行われると、その中で他の教えと共にイエス・キリストは神であり聖霊であり人間でもあるという三位一体が正しい教えであると決定され、他の宗派は弾圧された。