美術史第10章『ケルト人とゲルマン人の美術』
西ヨーロッパから中央ヨーロッパには古くはケルト系諸民族が居住しており、ケルト人の美術、ケルト美術は紀元前6世紀から紀元前1世紀頃のラ・テーヌ文化とカエサルによってローマに併合されて以降のガロ・ローマ文化の時代で異なるものになっている。
そもそもラ・テーヌ文化もといケルト人は東欧から広まった骨壷墓地文化から誕生した中欧のハルシュタット文化がギリシア文明やエトルリア文明の強い影響を受けて誕生した文化で、 ケルトの社会は鉄製武器やチャリオットを持った戦士階級に支配されており、宗教や政治、司法はドルイドという神官が担った。
この頃のケルト本来のラ・テーヌ文化時代の美術では大型建造物や彫刻、絵画は作られず、工芸品や装飾品が優れ、はじめは左右対称の文様や形態のものを多く作ったが、エトルリアやギリシアの影響で金工芸が変化し、細部で左右対称の伝統が崩れS字線や渦文が使われ、東欧のスキタイの影響で後述する動物模様なども導入された。
紀元前4世紀にはマケドニアに影響されて各地で金貨の製造が開始、また、この頃ケルト人の一部は拡大しアナトリア中部のガラティアやスペインのケルティべリアなどが誕生、ケルトが他国に傭兵として雇われたことからもその軍事力の強大さがわかり、この時代には特に南欧のケルトがローマ・ギリシアの強い影響を受けた。
その後、紀元前1世紀にカエサルにより西欧から中欧がローマ領のガリアとなるとケルト人は殆どローマ化、ケルトの伝統はブリタニア、要するにブリテン諸島に残ったケルト人やヴァイキングに受け継がれ、ブリタニアのケルトは後に多くがゲルマンに同化するがローマ領ではなかったアイルランドではこれが残り、その螺旋文様や装飾の伝統は後世のロマネスク美術の中核となることとなった。また、ヨーロッパの文化にも馬に乗るためのズボンやマントなどの伝統が受け継がれている。
一方、ゲルマン人は北欧のスカンジナビア半島から中央ヨーロッパ北部を起源とする民族で、スカンジナビアに存在していた狩猟採集民やインド・ヨーロッパ語族の縄目文土器文化の人々などの混血で、社会は部族国家的なキウィタスを形成し、一部の豪族による支配が行われ、氏族ジッペを単位とし復讐フェーデを基本とするゲルマン法を持ち、文化的には霊魂や自然を崇拝し神は森の中にいると考える独自の宗教を持ち、オーディンを中心にした巨人や小人への信仰を持っており、彼らは時代を経るごとにケルト人を圧迫して西や南に進出、ローマと接触すると一部はローマ化し、4世紀にはアッティラ率いるフン帝国の襲来により大量移住が発生、ローマ文化を基本に現在のドイツ、フランス、スペイン、イタリア、イギリスなどの基礎となる国々を建国した。
美術の面ではゲルマン人は見えているものを表現することにそこまで価値を見出さない民族で、先史時代の遊牧民から受け継がれた動物を文様化した組紐文様が多く用いられるなどやや呪術的な感じや表現対象の図式化や豊かな記号性を持つといった特徴を持ち、ローマ・ギリシアなどの美術とは異なる独自の美術が窺える。
ゲルマン人の誕生したスカンジナビアでは先史美術の極北美術が終わり新石器時代になると琥珀の彫刻や櫛文土器が生まれ、巨石文化も流入、青銅器時代になると青銅工芸とともに岩盤に円や舟を刻む図式が観られるようになり、紀元前後にローマと交流すると稠密な金銀細工やガラスの器などが多数作られた。
紀元後の5世紀から6世紀にはゲルマン人がイタリアの古い文字から作り出したルーン文字を刻んだ墓碑や浅いレリーフの色付き画碑が多く建てられ、8世紀頃にはヴァイキング時代の到来で怪物と植物が絡み合ったケルトから受け継がれた文様の彫刻物が盛んとなっており、中世後期にはキリスト教が広まり西洋美術も伝えられたが、北欧では近世まで本格的な西洋美術の繁栄はなかった。