シルクロードの歴史13『モンゴル人とシルクロード』
*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。
1. モンゴル帝国の拡大について
金がモンゴル高原を放置した結果、多くの民族が割拠する状態となっていたわけだが、それから百年ほど後にモンゴル高原に存在したモンゴルという一部族のチンギス・ハンがモンゴル高原を統一モンゴル帝国が建国され、モンゴル帝国はその後数十年で中華を統一し、中央アジア、東ヨーロッパ、中東にまで拡大したわけである。
モンゴルがそこまで拡大した理由としては、優れた編成を持った騎兵軍団を持っていた事、カタパルト投石機など城や都市を陥落させるための攻城戦の技術などの最新軍事技術を中国人やイスラム教徒達の技術者を雇って開発した事、降伏した都市には税金を納めさせる以外特に何もしなかった一方、反抗した都市は消滅させ、これにより降伏した都市が増えた事、ヤサ(ジャサク)というチンギスが作った法令により凡ゆる宗教が受容された事などがある。
モンゴルはイスラーム科学と中国科学を交流させ、結果、中国側では実用性を重んじる学問 朱子学が誕生し流行、イスラム側ではラシードゥッディーン、トゥースィーなどの優れた学者が輩出された。また、銃や火薬もモンゴルにより中国からヨーロッパに伝わったものであるとされる。
2. モンゴル帝国の分裂
しかし、1264年にフビライとアリクブケが内戦を行いその過程で各地域を収めていたチンギスの子孫達が分裂、カイドゥというチンギスの曾孫により中央アジアが独立しチャガタイ・ハン国が誕生、当然、中央アジアが別の国になるとその向こうの中東の領土もイル・ハン国、ヨーロッパの領土もキプチャク・ハン国として実質分離した。
フビライが直接治めているのはモンゴル高原や中国周辺のみとなり以降は中国の元王朝となり、以前からモンゴル帝国はあまりに広すぎて何となく纏まっている国同士の連合体のような状態になっていたのが、最早、この内戦によって完全に戻れない段階まで来てしまった。
ただ、それでもイル・ハン、キプチャク・ハン、チャガタイ・ハン、元王朝の四国は何となく一つの国という意識はあり、支配下の非常に広大な領域では、シルクロードのほぼ全域がモンゴル領やモンゴルの属国の領土に統一され、商業ルートもジャムチ、つまり駅の設置で整備され関税も撤廃されたことにより広い地域での交易が可能となった。
さらに中東と中国を領土にした事で、インド洋を通した海のシルクロード貿易も同じ国内での輸送となり、東洋と西洋の交流が今まで世界で前例がないほど加速し、なおかつ、安定した「パクス・モンゴリカ」と呼ばれる時代になった。
3. フランスとモンゴルの交流
ちなみに欧州の国々の中で、特にモンゴルと交流を行なったのはフランスで、これはモンゴルが属国化したアンティオキア公国など、過去にカトリック陣営が結成した十字軍がイスラム教の地域を侵略して建国したいわゆる「十字軍国家」は、ほぼ全てフランスの諸侯が治めているフランスの属国であったことが背景としてあった。
第7回十字軍の中では軍の指導者として遠征に参加していたフランス王ルイ9世とモンゴル軍が接触、協力関係を築くが、ルイ9世は敵のアイユーブ朝に捕虜にされ、その最中にアイユーブ朝がクーデターで崩壊、マムルーク朝が成立し、アイユーブ朝はエジプトを失ってシリアに撤退、ルイはマムルーク朝に中東で手に入れた領地を渡す代わりに解放され、マムルーク朝と同盟してアイユーブ朝を攻撃するが失敗した。
その後もルイはモンゴルとの交流を続け、モンゴルの構成国イルハン国のアバカとパレスチナ攻撃を共に行うと約束、その後、ルイは第8回十字軍を結成しチュニジアを征服するがその最中で死亡した。
その後、モンゴル軍はイスラームの中心だったバグダードを破壊しアッバース朝を滅亡させ、シリアに撤退していたアイユーブ朝も滅ぼしたのだが、これにはアンティオキア公国などの軍も参加していたとされ、このままエジプトのマムルーク朝も滅ぼすかと思われた。
しかし、モンケ・ハーンが死亡した事で、最高指揮官のフレグが自らモンゴルのハーンとなるため大軍を引き連れてモンゴル本国に戻り、残った軍は少なく、さらに十字軍国家がマムルーク朝側に味方した事でマムルーク朝への侵略は行えなかった。
その後もヨーロッパとモンゴルは交流を続けたが「黒死病」の流行による使節の減少、ヨーロッパと近い中東のイルハン国の滅亡、元の滅亡などにより14世紀には、交流はほぼ消えた。
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