うまくいってる時は気づかない、家族の平穏のカギ
ヨガをやっている者として、できる限り『サットヴァ』な状態を維持したい、と思う。
それを許さないのが、時に家族であり、特に子ども絡みの事は、自分ひとりの身に起こることの何倍もヘビィに効いてくる。
それを実感したのが先週のある出来事だった。
我が家は、ガレージのまわりでよく焚き火をする。
簡易式の焚き火台を買ってからは、私ひとりでも簡単に火をおこせるので、ちょっとした夕暮れ時間に木の枝を拾ってきて、焚き火を囲みマシュマロを焼いたりする。
その日はサンマが安かったので、夜ごはんに炭火でサンマを焼いて食べた。子どもたちも食べ終わり、もうすっかり暗くなった外で追いかけっこを始めた。
大人ふたりは片付けに忙しく、気がついたらお姉ちゃんの姿が見えない。
「うちに入ったんじゃない?」
だけど家の中のどこにも娘の姿は見えない。
もう一度外に探しに行く。真っ暗闇の中、娘はガレージの裏にいた。泣いていた。
「どうしたの?」
訳を聞くと、弟と追いかけっこしているうち、急に棒を持って追いかけられ、怖かったのだそう。
そうか、よしよし、と慰めて家に入ろうとしたら、
「ヤダ。あいつと同じ家にいたくない」
・・・そこまで、「怒」なの?
とりあえず、家の中の隠れ部屋につれていき、泣きじゃくりながら弟への罵りをぶちまける娘の話を聞いた。
結構、根が深いな・・・
強い拒絶の言葉が娘の口から出てくることにショックを受けながらも、その晩は私の部屋で一緒に寝ることにした。
結局、次の日もその次の日も、娘は学校を休んだ。
大人の私たちにできることと言ったら、二段ベッドを解体し、子ども部屋をふたつに分けることだった。
今回のことで私の心に起きた反応は、信じていた平穏がガラガラと壊れていくような、悲しみ。子どもふたりが仲良く楽しそうにしていない、という事実がこれほど重たく、暗いものだとは。
だって、弟が生まれてから、基本ふたりはずっと仲良しで、家族にとってそれが当たり前の光景だったから。
そりゃあケンカもするけど、でも、お互いのことをかけがえのない相棒と思って生きてきたはずのふたりが、いま一方から憎まれ、拒絶されている。
お姉ちゃんの気持ちが落ち着き、学校にまた行くようになって、私は改めて自分の受けたダメージの大きさを知り、同時に娘に対して勝手に押し付けていた役割に気がついた。
親と同じくらい、お姉ちゃんにも弟をかわいがってほしい、という願い。
弟の気性の不安定さや、コミュニケーションが苦手な部分を補ってほしい、という願い。
家族がうまくやっていくための、潤滑剤としての役割。
これらは、無意識のうちに娘に期待していたことであり、面と向かって言ったことはないけれど、きょうだい間に亀裂が入って初めて、姉の果たしてきた役割の大きさに気づいた。
うちって、お姉ちゃんなしには成り立たない・・・?
そりゃもちろん、誰が欠けても家族は成立しないのだけど。トライアングル状態の不安定さ。どっしりとコーナーを占めてきた姉の存在感。それらが我が家における「平穏」や「幸福」の基盤に大きく寄与していたことに、改めて感じ入った。
後日談・・・1週間もしないうち、ふたりがまた口をきくきっかけになったのは、トランプの手品。本で覚えたトリックをお姉ちゃんがやってみたくて、そのお相手に弟が適任だったというわけ。
それからは毎日同じバスで登校し、あつ森で欲しいアイテムを交換したり、これまで通り仲良くやっている。
でも、覚えておかなくてはならない。この、穏やかで親密な空気が、決して当たり前のものではない、ということ。
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