羨みモードタイムな休日:エッセイ #250113
自分でも嫌になるくらいに堕落している。
なにか大きなイベントをやり切った翌日は全くもって動けない。
土曜日にイベント。
翌日の日曜日は何度目覚めても身体が容赦を要求し何度も何度繰り返し寝続けた。
今朝はいつもの通り設定されたアラームで、5時頃に目を覚ましていつものルーティンに取り掛かろうとしたところで気がついた。
今日は祝日で休みの日だったんだ、
少し安心して洗面台からまた寝床に帰る。
気づいたら昼過ぎになっていた。
そしてまた、ギターのレッスンをすっぽかしたことにも気がついた。
謝罪の連絡をいれたところで、発達の特性を理解しているギター先生から亜鉛の栄養剤を勧められた。
まあいいか、普段より負荷のかかる日だったし、それなりに複数人の満足にもつながったし、今日まで何も考えず休もうと。
昨日作った鍋の締めにライスをぶっこんで、雑炊を食べることにした。あとスナック菓子。
Netflixで
トリリオンゲーム(アニメ版)
あいの里2
宇宙兄弟
千鳥のバラエティ(番組名忘れた)
それぞれ複数話観ていたらもう消化できなくなってくる。
人間には1日に消化して受け取れる栄養素に限りがあるように、どんなに優れた作品でも受け取れる時間には限界があるように感じる。
そして、初めは感受性豊かに受け留めて楽しんでいた時間もだんだんと現実に引き戻されていく。
そして、"今の自分はこんなことしてていいのか""ただただ作られた作品を消費者として傍観するだけの一般市民でいいのか"
と内なる自分が声をあげ始める。
この感受性が落ちて新しい気づきや学びがあるわけでもなく、ただただ傍観してしまっている時間のことを「羨みモードタイム」と呼んでいる。(さっき思いついた)
羨みモードタイムの自分は、無力さを感じながらもただただ現実逃避するだけでそれは何の価値もなく、焦燥感だけが高まっていく感覚。
そう、"自分がいつもすぐに否定してしまう人たち"と同じ状態のこと。
何かしなきゃと焦りながらも、SNSやスマホゲームで時間をやり過ごしてしまうクセから抜け出せない人たち。
活字を読んだり、自分の頭で何かと向き合ったりする時間を恐れているかの如く、スマホに依存してしまう人たち。
その状態になってしまってどうしようもない気持ちは痛いほどわかる。
だからこそ、その現実から離れるために活字に触れたりノートに書いたりギターを鳴らしたりする。
今日はノートに書くモードにもならなさそうだったので、ウォーキングに出かけた。
本当ならランニングにしたいが、あまりにも堕落した2日間を過ごしてしまった後だからとウォーキングで手を打った。
以前から聴きたかったSF小説のオーディオブックを味方にしてグングン歩いて結果、1:15くらい経っていた。
ほどよい疲労感と明日からの仕事に支障が出ないくらいのちょうどいいところだと思う。
おかげでこの日記も書けたし、SNS各所もアップできた。
あ、水筒がなくなっているが、またどこかに置いてきてしまったのだろうか。
すぐに物を無くしてしまう自分に辟易しながら、まあいいかと許すことにしておこう。
これ以上焦らせてもメンタルをいじめても何にもならないことは承知済み。
直近で掲げた"孤独"に耐えられていることだけで良しとしよう。
また明日から今週も頑張ろう。
弱男HAL