王位戦第二局で起きた”時間のアヤ”
2020.07.16. 藤井七段、棋聖獲得おめでとうございます(新棋聖となられる直前にこの記事をアップしたため七段表記となっていることをお断りしておきます)。
第61期王位戦七番勝負第二局(▲木村王位-△藤井七段)は藤井七段の大逆転劇で幕を閉じたが、どうしてこんなことが起こったのだろうか?自分はこれは起こるべくして起きた ”時間のアヤ” による悲劇だと思っていて、その理由を自分が勝手に指し手から受けた対局者心理との抱き合わせで語ってみたい。
【1日目~2日目午前の要約】
1日目終了時には既に木村王位が局面を支配していた。2日目に入ってもそれは変わらず、差は開いていく一方だった。藤井七段は「どうすれば被害を最小限に抑えられるか?」という手を終始考えさせられており、明らかに劣勢だった。コンピュータの形勢評価値は百分率で▲70%-△30%より開き、”いつ木村王位が勝ちを決めに行くか” というところにまで来ていた。通常、プロであればここまで差が開いたら▲50%-△50%に戻すことすら至難なのだが、ここで本局の伏線となる出来事が起こる。
【伏線】空白の”5分間”
2日目の昼食休憩5分前、手番を握っていた木村王位は指すつもりが無かったのか、この5分間を放棄して早々と休憩に入った。1日目の疲労が残っていたのか、盤面をリードしている余裕から手放したのか、それとも単におなかが空いていたのかは分からない。しかしながら、この空白の5分間が後の王位にとって喉から手が出るほど欲しい時間となっていくのである。
【粘力】藤井七段の負けない将棋
将棋は攻める側のリスクが意外と大きい。なぜなら、戦端を開くために幾ばくかの犠牲(駒損)を強いられるからだ。攻めを上手く繋げられずに失速して攻守が入れ替わった瞬間、渡した駒を含めた強力な反撃が待っている。スポーツで言えば、サッカーやバスケなどのラインを上げた状態でインターセプトされる感覚に近いかもしれない。チャンスが来た時に決めきらなければ、リードがたちまち吹っ飛んでしまうのは将棋も同じなのだ。
2日目の午後に入っても、依然として藤井七段は苦しく、簡単には負けない将棋を貫いていた。ひたすら守勢に回り、粘り続けている。万が一木村王位が緩手を指したりミスをすれば、そこで反撃に転じるという方針なのだろうか。とにかく今は、”傷だらけになりながらも、じっと息を殺して耐え忍ぶ” という表現がぴったり合う印象だった。
【切迫】終盤、先に木村王位の持ち時間が尽きる
夕方に入る頃には、持ち時間に1時間以上の差がついていた。65手目、▲2八香。時間に余裕のある木村王位の攻めは素人目からしても分かりやすい飛香の2段ロケットで、結果的に金1枚を得して優勢がより鮮明となる。そして、藤井玉を捕まえるべく攻勢を強めていった。
残された時間が▲木村王位15分ー△藤井七段4分となった99手目、▲4二銀。王位は残った時間との兼ね合いもあってか、ここで勝ちを決めに行った。しかし、追い詰めているはずの藤井七段の玉はなかなか捕まらない。それどころか、1分も使わずに応手を繰り出し続ける藤井七段に王位の残り時間は見る見るうちに削られていき、風雲急を告げる。
そして迎えた120手目、△5三香。この一手で形勢は動き始める。この香の意味は木村王位の王がいる敵陣に直通して睨みを利かせつつ、5二にいる藤井玉に対して5三に何かしら駒を打って王手するのを防ぐ絶妙な攻防手だった。この手を見て、木村王位は冷静さを失う。121手目、▲7九玉と退いたことで勝負の行方は瞬く間に分からなくなった。しかも考える時間が1秒でも多く欲しいという時に、木村王位の命とも言える持ち時間が先に底を突いた。
持ち時間は終盤になるほどその価値を増す。使い切れば1分将棋となり、1分以内に手を指さなければ負けとなる。1分将棋を感覚的に言えば「終わるまで休みなく全力疾走を続けろ」と言っているのに等しく、脳が酸欠状態に陥る。自分が全国大会で30秒将棋をした時がそうで、最終盤は冗談抜きで手が震えたり、過呼吸になったりした。終局時には魂が抜けたようになるため、許されるならスポーツ用の酸素缶を持ち込みたいくらいだったし、木村王位もその状態に近かったに違いない。
【決着】あの”5分間”があれば勝負は分からなかった
△5三香以降、ここぞとばかりに猛攻を仕掛けた藤井七段の方へ形勢は一気に傾いていった。極度の疲労と時間的余裕の無い中で自分の読みに無かった手が指されると思考が停止しやすく、パフォーマンスはガクンと下がる。しかし藤井七段はその例外で、読むスピードがプロの中でも卓越しているために残り時間が数分になってもパフォーマンスの低下はほとんど起こらない。
藤井七段に対して時間を使い切った状態で挑むということは、1分とかからずに最善手を返さなければならず、少しでも疑問手を指せばこれまでに築いた優勢・勝勢が一瞬で消し飛んで敗北する綱渡りの時間が延々と続くことを意味する。彼の読むスピードについていけないとどうなるかは、もはや説明するまでもない。そういう理由があるので、相手より先に時間を使い切るのはできるだけ避けたいのだ。今思えば、昼食前のあの ”5分間” をここに取っておくことができれば、勝負はどちらに転んでいたか分からなかった。
結果だけ見れば藤井七段の大逆転勝利ではあるものの、内容で言えば木村王位の方が圧勝していた。いわゆる「試合に勝って、勝負に負けた」と表現されるもので、序中盤で藤井七段を追い詰めた木村王位の凄みが存分に発揮された一局と言えるだろう。最終盤で30分程の時間的余裕を残すような展開になれば勝機があることが示唆されたので、第三局からは木村王位の逆襲に期待したいところだ。