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なにもnoteを毎日投稿しなくてもいいんじゃない? いや――
毎日投稿を目指してがんばろうねっ!!!っていう記事でございます。
noteを投稿することを習慣にすることを考えるのであれば、毎日、投稿をすべきなのだろう、と思う。
ジム通いに代表される運動の習慣化には、週に4回以上を8週間程度の継続が行えると定着しやすい、という話があったはずだ。
(ちなみにこれが本記事の結論である。つまらない結論でごめんネ!!)
ただし、その場合、手段を目的化している感じが拭えない。
毎日更新を目指してクオリティを下げることも、どこか納得がいかない。
この場合の手段とはnoteを書くことで、目的は何かを表現することだ。
毎日更新を目的とした場合、手段と目的が倒錯してしまっている。
何かを表現したいことや、
伝えたい思い(目的)があり、
noteを書く(手段)
という構図になるはずが、
noteを書くために(目的)、
何か表現すべきことをアウトプットする(手段)
という構図になってしまっている。
前述したが、クオリティの問題もある。
毎日更新の頻度で、自分が満足できるクオリティのものが出せるとも限らない。
しかしまあ。
手段が目的化しようとも、
クオリティが多少低くとも、
毎日に近い頻度で更新することを目指すのは、
それはそれでよいのかもしれないな、と思うなどした、
何か表現したいことがあって書くのが一番なのだろうけれど、
本当に話したいことや伝えたい衝動が内側から盛り上がってくるのは、僕の場合はけっこう稀で。
もしもいざ衝動に突き動かされて、ノートパソコンを必死にぱちぱちしたところで、できあがるのは――。不慣れでぎこちない、ありきたりのクリシェだったりするのではないか。大切な僕の生の衝動が、つまらない成り下がってしまう。そんなことは許しがたい。
でも悲しいかな、発声練習をろくにしていない人間の歌を聞かされてしんどい。
誰が一番しんどいって、自分だ。
脳内では心地よい理想の旋律が高らかに鳴っている一方で、耳と口ほどの再接近距離で自身の調子はずれっぷりを聞かされる自分自身が、世界で誰よりもしんどいのである。
発声練習が必要だ。
僕は、自分の表現したいことがつまらないクリシェに成り下がることを許せない。
もし僕の内側に、とても切実に語るべきことが生まれたときに。
自分の言葉でなにかを表現しようと思ったときに。
訥々でもいい。
滑らかに語られる言葉には、必ず嘘があるから。
僕は、自分の気持ちに誠実に向き合うための発声練習として、
noteをできるかぎり毎日書こうと思うのだった。思うのはタダだからね。
完璧なものなどは出そうと思っても出せないのだから、
65点くらいを目指してつつ、実際は40点くらいの文章を出す無礼を許されたい。
そういえばふと思ったのだけども、
自己評価が低い人ほど、たぶん自己愛がものすごく強い。失敗を許さない自己愛ゆえに、行動のハードルを果てしなく上げて「これは無理だよ仕方ない」と自分に言い聞かせようとするのだ。
自己愛が強い人ほど、赤点回避スレスレ40点くらいのクオリティのものを、とりあえず世の中に出してみる練習が必要なのかもしれない、と言い訳じみた予防線を張るなどしている。
ハードルの下をくぐっていこうね。