「かもしれない」と向き合うこと
決断とは、何を「するか」を決めるのではなく文字通り何を「断つか」を決めること。
私たちは日々の生活で無数の選択肢を前に、時には短絡的に時には熟慮して決断を下すわけだが、それは無数の「かもしれない」の剪定を行なっているともいえる。
ノラとヘソンの24年間を辿る本作は、自らが剪定してきた「かもしれない」とどう向き合うかを主眼としており、他のラブストーリーとは一線を画す。
「あの時〜していれば、今頃二人は〜だったかもしれない」という恋愛関係にのみ閉じる文脈で「かもしれない」を描いた作品は散見されるが、本作の「かもしれない」はノラとヘソンの関係性のみにとどまらない。
ノラの堂々たる快活さ、ヘソンのハグのぎこちなさから東洋と西洋の価値観や文化の違いが浮き彫りになり、もし幼い頃に海外へと移ったノラと韓国で生活するヘソンの立場が逆であったならと考えさせられる。
その一方で、どれほど生活する環境が異なれど、ルーツが同じである者だからこそ通ずる概念(イニョンを筆頭に)や会話のニュアンスも存在することを本作は描いていく。
それは裏を返せば、ルーツが異なる者同士には決して交わることのできない隔たりを意味しており、アーサーが持つ特有の物寂しげな表情はノラに対して感じる隔たりが起因しているのだろう。
ノラが韓国語で寝言を発した時にアーサーはノラとの間に途方もない距離を感じたに違いない。
その距離は決して埋まることはないかもしれないが、その距離の存在は互いを想い合う強さとは無関係で、異なる種であろうとも同じ鉢の中で木をふたつ植えることは可能なのだ。
時の流れという有限の中で、「かもしれない」という無限の可能性に想いを馳せる。
そんな無限の「かもしれない」に囲まれながらも、今この瞬間を慈しみ肯定することこそが、私たちにできる最善の選択なのだろう。
今この瞬間の人生こそが来世から見た前世(パストライブス)かもしれないのだから。