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罪への没入

第三次世界大戦の勃発を巡る前作「TENET」で、ある問いが産み落とされた。
世界を永遠に変えてしまうような決断、発明を無かったことにできるのか。可逆性と不可逆性への問いかけともいうべき、この問いは本作の通奏低音であり、そしてオッペンハイマーという人物を通して今を生きる我々をも揺さぶる。


本作はオッペンハイマーを主人公とした反戦映画ではあるものの、そうした枠組みでは収まりきらないほど「罪の意識」の映像化に成功している。
まさかここまで一人の人間の内面にフォーカスする作品であるとは。

罪の意識を客体化して描くのではなく、あくまでも主観として描き、オッペンハイマーの内面を視覚的に表現するアプローチは圧巻の一言。
これほどまでに一人の人間の内面を観客に憑依させようとする試みを私は知らない。

没入や体験という言葉が一人歩きしがちな昨今だが、本作にこそ没入や体験といった謳い文句は相応しい。
そして何より、没入、体験する対象があのオッペンハイマーなのだから、本作が如何にとんでもないことを成し遂げたのかは想像に難くないだろう。


直視できないほどおぞましく、言葉にできないほど深く、息が詰まるほど重い罪と対峙するオッペンハイマー。
慟哭や涙ながらの謝罪といった贖罪シーンは一切描かれず、誰からも「罰されない」という罰が彼を侵食していく。
市民からの拍手喝采が、終戦の通達が、悲鳴と歓声が表裏一体となって彼を襲うのだ。

阿鼻叫喚と万雷の拍手、足音とカウントダウン、水面に映る波紋と爆発。
至るところに自身の犯した罪の片鱗が垣間見える人生を背負うほか道はない。
しかしノーランはオッペンハイマーのみを断罪することはせず、万雷の拍手を浴びせたお前たち、投爆地を決めたお前たち、全てを知っていながら行動しなかったお前たちはどうなんだと問う。

彼は、幻覚の途中で映し出される女性に自身の長女をキャスティングした。
生半可な覚悟では決してできないその行為は、破壊的な力を容認することで大切な存在がどうなってしまうのか、を我々に本気で伝えようとしていることの証左に他ならない。


スクリーンに映し出された水面に映る波紋のように、たった一人の決断や行動は時として想像を遥かに超える領域にまで波及し拡大する。
自身の決断、行動が世界を永久的に変えてしまった事実に人は耐えうるのか。

過去作で描いてきた二項対立でありながら表裏一体である二人の人間(バットマンとジョーカーの関係性を彷彿させる、オッペンハイマーとストローズの関係性)、時系列のシャッフルなど「ノーランらしさ」を盛り込みつつも新境地に達した本作は彼の集大成といっても過言ではない。
これまでエンタメ作品の名手としては評価される一方で映像作家としては正当な評価を得られなかったノーラン。
そんな彼が、自身と同じような苦渋をなめてきたスピルバーグプレゼンのもと監督賞に輝いたのは、巨匠からのバトンを受け取ったということなのだろう。

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