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【試し読み】『反共感論』全米で物議を醸した衝撃の論考

「相手の気持ちになって考えなさい」
こうした共感力に訴えかける言葉を、幼少期に親や教師にから聞かされて育った人は多いのではないでしょうか?
その根底にある考えは「共感=善」というもの。

しかし私たちは、アフリカの見知らぬ無数の子どもたちの死より、知り合いの一人娘の死に共感し、何かしてあげようという気になります。つまり相手を知っている・・・・・・・・というだけで、たった一人の死が無数の人の死に勝ってしまうのです。
このことから、共感という能力は著しく狭い範囲にしか働かないという「欠陥」があり、必ずしも善とはならないことが分かります。

本書『反共感論:社会はいかに判断を誤るか』は、心理学・脳科学・哲学の角度から共感の孕む危険性について迫ることで、みなが盲目的に善いものと信じ込んでいる共感に反対するよう読者を説得していきます。

それでは、冒頭の「はじめに」の抜粋をお楽しみください。

反共感論:社会はいかに判断を誤るか

■ ■ ■

はじめに

 数年前のある晴れた日の午前、ネットサーフィンにかまけて仕事をおろそかにしていたとき、コネチカット州ニュータウンで銃乱射事件が起こったことを知った。学校で誰かが銃撃されたことを伝える最初のニュースには身震いこそしたものの、特に際立った事件ではないように思えた。だが事件の詳細が徐々に明らかにされ、午前9時にアダム・ランザがベッドで寝ていた母親を殺し、それからサンディフック小学校に行って、20人の児童と6人のおとなを殺害したあと自害した経緯を知ることとなった。

 何がランザをしてこの残忍な行為に走らせたかに関しては諸説紛々としているが、私がここで取り上げたいのはそのときの人々の反応についてである。私の妻は自分たちの子どもたちが通う学校に行って、彼らを連れ帰ろうとした。だが、犠牲になった子どもたちと同様に小学校に通っていたとしても、ティーンエイジャーの息子たちを家に連れ帰るのはおかしいと妻は思い直して、その衝動を抑えた。もちろん彼女がそのような衝動を覚えたこと自体は、私にも容易に理解できる。私は、子どもたちの両親がまっしぐらに犯行現場に駆けつけるところを映し出した映像を見て、彼らがどう感じているのかをいやでも想像せざるを得なかった。今でもそのときのことを思い出すと、胃がかき乱される思いがする。その日の午後、大学の研究室の近くにある喫茶店に行ったのだが、隣のテーブルでは、すすり泣きながらかすれた声を出している一人の女性が友人に慰められていた。特に盗み聞きをしようとしたわけではない。だが、彼女には事件に巻き込まれた子どもや知人はいないが、殺された児童と同じ年齢の子どもがいるということだけはわかった。

 同時多発テロのような衝撃的な事件はいつでも起こり得る。銃乱射事件は今や日常茶飯事のごとく発生している。だが私や私の周囲の人々にとって、サンディフック小学校銃乱射事件は、それらとは別ものだった。それは子どもたちを巻き込んだ異様に残酷な犯罪であり、しかも私たちが住む家の近くで起こった。近所に住むほぼ誰もが、ニュータウンの犠牲者の家族と個人的なつながりを持っていた。事件の数日後、私たちはニューヘブン・グリーンで行なわれたキャンドル・ビジルに参加した。年少の息子は涙を流していた。数か月後彼は、犠牲者に敬意を表すブレスレットを身につけていた。

 のちに大統領が記者会見でこの事件に言及したおりに、私は彼の声がつまるのに気づいた。いつもは政治家に辛らつな私も、そのときはそれが演技であるとはまったく思わなかった。むしろ、それほどまで心を動かされた大統領の姿を見て、嬉しく思ったものだ。この事件に対する私たちの反応は、当時もその後も、他者の目で世界を眺め、他者が感じていることを自分でも感じる能力、共感に強く支配されていた。多くの人々が、この能力を善良さや道徳に資する、天が配剤した強力な資質であると見なしているのも無理はない。共感の唯一の問題は、それを十分に備えていない人が多すぎることだと考えている人が大勢いるのもよく理解できる。

 私自身も、かつてはそう考えていた。しかし今は違う。もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

 これは過激な発言ではあるが、見かけほど・・・・・過激ではない。本書は、よくある奇をてらったサイコパス礼賛書などではない。私が提起する反共感論は、利己的たれ、不道徳たれと主張するものではない。まったく逆である。つまり、他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、共感なしで済ませたほうがよい結果が得られる、というのが私の主張だ。

 もう少し慎重な言い方をすると、特定の意味における共感はなしで済ませたほうがよい。なかには、道徳性(morality)、親切(kindness)、思いやり(compassion)などの類義語として、あらゆる善きことに言及して「共感(empathy)」という語を用いる人がいる。もっと共感が必要だという主張の多くは、お互いに親切にし合えばもっとよくなるなどといった程度の見方を提起しているにすぎない。それなら私もまったく賛成する!

 また、他者を理解する行為、つまり他者の頭のなかを覗いて、その人が何を考えているのかを理解しようとする行為として共感をとらえる人もいる。この意味なら、私も共感に反対したりはしない。社会的知性は他のいかなる知性とも同様、道徳的行動の道ツール具として使える。ただしこれから見るように、この種の「認知的共感」は、善きことをなす能力として過大評価されている。つまるところ、他者の欲望や動機を正確に読み取る能力は、上首尾の〔警察に捕まっていない〕サイコパスの特徴でもあり、残虐な行為や他者の搾取に利用し得る。

 私がもっとも大きな関心を抱いているのは、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」、すなわち「他者の経験を経験する」という意味での共感である。心理学者や哲学者のほとんどは、この意味で共感という用語を使っている。しかし、言葉でものごとが決まるわけではない。共感という語を思いやりや愛情や善良さなどといった広い意味でとらえれば、あるいはその逆に他者を理解する能力として狭い意味でとらえれば、そこには何の問題もない。それらの意味であなたが共感という語を使っているのなら、私はその意味で共感に反対しているのではない。したがって私が本書で提示する議論は、そのように理解しているあなたではなく多くの人が共感として考えている心理的プロセスに関係するととらえてほしい。あるいは用語の定義についてはきれいさっぱり忘れて、いかにすれば善き人になれるかを探究する道徳論や道徳心理学に関する本として本書をとらえてもよいだろう。

 本書で私は、共感と呼ぼうが呼ぶまいが、他者が感じていると思しきことを自分でも感じる行為が、思いやりがあること、親切であること、そしてとりわけ善き人であることとは異なるという見方を究めていく。道徳的観点からすれば、共感はないに越したことはない。

 たいていの人は、私のこの主張をありえないものだと見なす。この意味における共感力は、いたって重要であると考えているのだ。「金持ちは、貧乏な暮らしがどのようなものかを理解しようとはしない。理解しているのなら、社会はもっと平等で公正な世の中になっているはずだ」などとよく言われる。銃を所持していない黒人が警官に撃たれると、左派の評論家は「警官は黒人のティーンエイジャーに対して十分な共感を持っていない」と論評し、右派の評論家は「警官を批判する人は、困難で危険に満ち、つねにストレスを受けながら働いている警官の仕事に対して十分な共感を持っていない」と論評する。あるいは、白人は黒人に対する、また、男性は女性に対する共感を欠くとよく言われる。イスラエル人とパレスチナ人の紛争は、それぞれの陣営が「相手陣営の立場に立つことを学ぶ(learn to stand in each other’s shoes)」ことによってのみ終結するだろうとするバラク・オバマ大統領の見解に、たいていの評論家は同意することだろう。以後の章では、ナチスにもっと共感力があればホロコーストは絶対に起こらなかったはずだと主張する心理学者を取り上げる。「医師やセラピストは、共感力があればもっとうまく自分の仕事を果たせるだろう」「あの政治家に共感力があれば、あんな政策は実行しないはずだ」などと主張する人もいる。また私たちの多くは、自分の置かれている状況に人々がもっと共感を抱いてくれたら、すなわち自分の生活がいかなるものかをほんとうに感じ取ってくれたなら、自分の扱いもはるかによくなるはずだと思い込んでいる。

 私の考えでは、それらの思い込みは間違っている。私たちが個人として社会として直面する問題のほとんどは、共感の欠如が原因で生じるのではない。それどころか、過剰な共感が原因で生じる場合が多々ある。

 これは単なる共感に対する攻撃ではない。それよりもっと大きな目標がある。私は、日常生活において意識的で合理的な思考力を行使することの価値を強調したい。心より頭を使うよう努力すべきだと言いたいのだ。もちろん現在でも、私たちはたいがい頭を使ってものごとを考えているわけだが、もっと努力が必要である。

 この提言は一般に受けが悪い。無知でナイーブな考えだと言う人もいるだろう。私の同僚の多くは、私たちが行なうもっとも重要な判断や行動が、意識的な自己にはアクセスできない神経プロセスから生じると主張する。ジークムント・フロイトは、この主張を徹底した考えを提起したことで知られるが、この見方は現代になって、ときにきわめて極端な形で復活してきた。「私たちが理性的な存在でないことは、心理学者が証明している」という言葉が、哲学者や評論家やその他の知識人の口をついて出てくるところに、これまでいったい何度遭遇したことだろう。

 道徳の領域では、理性を否定する傾向がとりわけ強く見られる。「何が正しく何が間違っているかの判断は、共感、怒り、嫌悪、愛情などの感情に支配されている」「それには理性はほとんど無関係である」などといった見解を、今や多くの人々が受け入れている。動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールが述べるように、私たちは理性の時代ではなく、共感の時代に生きているのだ。

 少なくとも私たちの一部は、「妊娠中絶や死刑などに関する私たちの見解は、慎重な熟慮の産物である」と、また「慈善事業に寄付をする、入院中の友人を見舞うなどといった道徳的行為や、その意味で言えば万引きや、車の窓越しにヘイトスピーチを吐くなどの行為は、意識的な意思決定に基づく」と考えている。しかし、その見方は間違っていると主張する人もいる。道徳心理学者のジョナサン・ハイトが論じるところでは、私たちは判事ではなく弁護士であり、すでになされた行為を説明するあとづけの理由をでっち上げているのである。理性は無力である、というわけだ。ドゥ・ヴァールはそれに同意し、「私たちは理性を称揚する。だが私たちは、状況が悪化すると称揚していたはずの理性にほとんど重きを置かなくなる」と述べる。

 道徳の持つ情動的本性は善きものであると主張する研究者もいる。道徳とは、熟慮するべきたぐいのものではない。その証拠に、実在の人物であろうが、架空の人物であろうが、道徳的英雄の多くは、理性の働きを最大限に動員する人でもなければ、倫理についてあれこれ考える人でもない。要するに彼らは心の人なのである。架空の人物ならハックルベリー・フィンやピップやジャック・バウアー〔アメリカのテレビドラマシリーズ『24』の登場人物〕、実在の人物ならイエス・キリストやガンジーやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは皆、感情の人であり、理性が関わるとハンニバル・レクターやレックス・ルーサー〔『スーパーマン』に登場する悪役〕ができ上がる。

 さて、心や道徳に関するこの手の見方がまったくの間違いだとは、私も思わない。道徳的判断の多くは、理性的熟慮の結果ではない。それどころか私は、道徳的理解の起源を探究した前著『ジャスト・ベイビー ―― 赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』で、赤ちゃんでさえ、何が正しく何が間違っているかに関してある種の感覚を備えていると論じた。だが、赤ちゃんは意識的に熟慮する能力を持たない。道徳の基盤が自然選択の過程を通じて進化してきたことを示す証拠はたくさんある。道徳は頭で考えられたものではないのだ。

 情動が私たちの道徳的生活に強力な影響を及ぼしていることは明らかであり、ときにそれはよいことでもある。感情〔一般に感情(feeling)は、情動作用が意識的な気づきによってとらえられた場合に生じるとされる。それに対し情動(emotion)は、必ずしも意識にとらえられたものに限られない〕の必要性は、孔子や彼と同時代に活躍した中国の思想家たち、あるいは啓蒙時代のスコットランドの哲学者によって擁護されている。また現代では、認知科学や神経科学の成果によって裏づけられている。たとえば、情動を司る脳領域の損傷によって、日常生活に破壊的な影響が及び得ることを示す科学的証拠が多数得られている。また私の同僚デイヴィッド・ランドが最近行なった研究では、直感的決定は親切で協力的なものになりやすく、それに対し時間をかけた熟慮は不適切な行動を導く場合があることがわかった。

 だが私が今あなたが手にしている本を書いたのは、情動の本性が過大評価されていると考えているからである。私たちは直観力を備える一方、それを克服する能力も持つ。道徳問題を含めものごとを考え抜き、意外な結論を引き出すことができるのだ。ここにこそ人間の真の価値が存在する。この能力は、人間を人間たらしめ、互いに適正に振舞い合えるよう私たちを導いてくれる。そして苦難が少なく幸福に満ちた社会の実現を可能にする。

 自分の家族や友人を最優先するのはきわめて自然な態度だ。身内に対する気づかいが、赤の他人に対する気づかいより圧倒的に強力であることは、誰もが認めるところであろう。親族の影響の強さは、「血は水より濃い」という言い回しに顕著に見て取ることができる。また互恵主義の引力の強さは、子どもの頃私がなついていた親戚の一人から教わった、「私たちの幸福に乾杯。他のやつらはみんな地獄に落ちてしまえ!」という乾杯の音頭に如実に現われている。

 ダーウィニズムの観点からすると、この選好は思考の働きに依拠しない。自分自身をひいきする生物は、分け隔てのない生物より自らを有利な立場に置くことができる。「自分の子ども対他人の子ども」「赤の他人対友人」の区別に無関心な人類が出現したとしても、彼らの遺伝子は、身内を大切にする人々の遺伝子によって排除されてしまうだろう。だから私たちは、生まれつきの平等主義者などではないのである。

 その種の郷党的な欲求はなくならないし、おそらくなくなるべきではないのかもしれない。これについては後述するが、家族や友人に特別な愛情を注ぐことがなく、あらゆる人々を平等に扱う人をどう考えればよいか私にはよくわからない。聖人と見なす人もいるだろう。私自身を含め、その種の行為は行き過ぎであり、そのような生き方にはどこか反発を感じると言う人もいる。

 しかしそれにもかかわらず、この生得的な選好をもって私たち人間が定義されるわけではない。私たちは、遠い国で暮らす人々(自分とは無関係な人々、自分を知らない人々、私たちの幸福を希わない人々)の生活も、自分の子どもの生活と同じくらい重要だということを知性で把握できるほど十分に賢い。他のやつらであっても、地獄に落ちてはならない。いかに自然で直感的であるように思えたとしても、自分が属する民族や人種をひいきすることは、不公正な態度であり、道徳にもとるということを正しく認識できる。そして公正の原理を確立するための政策を立案するなどして、公正さを守らせるよう働きかけることができる。

 確かに人間は情動的な動物だが、合理的な意思決定能力を持つ理性的な動物でもある。私たちは情念を克服したり、そらせたり、却下したりすることができるのであり、そうすべきケースも多い。怒りや憎しみにその点を見て取るのはたやすい。これらの情動が私たちをあらぬ方向に誘導すること、それらを回避し、その支配を免れられれば事態が改善することは明らかだ。しかし、一見するとポジティブであるように思われる共感のような情動に関しても同じことが当てはまれば、理性の優位性は決定的なものになるだろう。本書を書いた理由の一つはそこにある。

 私は本書で、次の三つのテーマを論じる。
・私たちの道徳的な判断や行動は共感の強い力によって形作られるところが大きい。
・そのせいで社会的状況が悪化することがままある。
・私たちはもっと適切に行動する能力を持っている。

 だが、いかにして共感は私たちを誤った方向に導くのか?それについてはおいおい述べていくので、ここでは要点を簡潔に述べるに留めておく。共感とは、スポットライトのごとく今ここにいる特定の人々に焦点を絞る。だから私たちは身内を優先して気づかうのだ。その一方、共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関係を損ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。

 本書を読み終わるまでには、共感には無害な・・・側面があるのだろうかと疑問に思うようになっているかもしれない。

 私たちは、共感、あるいは怒り、恥辱、憎悪の存在しない世界で暮らすことなど決してないだろう。私も、そのような世界で暮らしたいとは思わない。それらの感情は、さまざまな意味で人生を豊かにする。しかし私は、情動をしかるべき場所に据える文化を構築できると考えている。本書は、それに向けての第一歩になるだろう。

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本書の目次

はじめに
第1章 他者の立場に身を置く
第2章 共感を解剖する
第3章 善きことをなす
間奏Ⅰ 共感に基づく公共政策
第4章 プライベートな領域
間奏Ⅱ 道徳基盤としての共感
第5章 暴力と残虐性
第6章 理性の時代

著訳者プロフィール

著者 
ポール・ブルーム(Paul Bloom)
イェール大学心理学教授。発達心理学、社会的推論、道徳心理学の世界的権威。研究のほか執筆や教育でも多数の受賞歴がある。おもな著書に『ジャスト・ベイビー―赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源』(NTT出版)、『喜びはどれほど深い?―心の根源にあるもの』(インターシフト)があるほか、サイエンス誌、ネイチャー誌、ニューヨーク・タイムズ誌、ニューヨーカー誌などにも寄稿している。コネチカット州ギルフォード在住。

訳者
高橋洋
(たかはし・ひろし)
翻訳家。同志社大学文学部文化学科卒(哲学及び倫理学専攻)。訳書にノルトフ『脳はいかに意識をつくるのか』(白揚社)、キャロル『セレンゲティ・ルール』、ドイジ『脳はいかに治癒をもたらすか』、ドゥアンヌ『意識と脳』(以上、紀伊國屋書店)、クルツバン『だれもが偽善者になる本当の理由』(柏書房)、ダン『世界からバナナがなくなるまえに』『心臓の科学史』、エリオット『脳はすごい』(以上、青土社)ほかがある。

『反共感論』紹介ページ


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