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ホットケーキ🥞

【ホットケーキ】


 シリアルボウルが欲しかった。
 コーンフレークを入れて牛乳かけて、サクサクとスプーンで混ぜ合わせると、それが次第に溶けるの。
 小学生の頃、赤い牛革のランドセルを担がされていつもぐったりしていた。無表情でやるせなく、誰とも心通わず通わせられず、もっとも、通い合いたくもなかった。
 呆気なく空の落ちた放課後は、まるで半世紀ここは無人の荒野だったと確信させる何かがあった。虎穴もあればライオンの食卓もあり、脱兎の逃げ道も、憤慨する鳥の決闘場もあった。犬と馬だけいなかった。人間の匂いを好む動物は追放されたから。宇宙が眉間に皺をよせ、食べこぼした地球の残骸を吸い取る。堕落した猿の群れと紙幣の壁を貫いたわたしはこの町の赤い屋根を見渡す。アイスクリームを自動販売機で買い食いしながら子供らのカオスを潜水泳ぎしてはまた、ぱっと顔をだす。それから通学路に復帰すると、何事もなかったように白い地面と白い空を歩きはじめる。白い風の中を、白い顔の子供が、赤いランドセルを背負い、白い道をその真白な裸足で歩く。あと少しで自宅が見えてくる。

あの日の日記帳────午後6時・晴れ
 テーブルには鶏の形をした陶製のバスケットが置いてあって、必ず三つの生卵が入っています。一つ目はわたしが下校してすぐおやつに作るホットケーキに。牛乳と粉を混ぜるときに一つ使います。二つ目は、目玉焼き。夕方6時になったら、わたしはひとりでお夕飯を食べなくちゃいけません。目玉焼きを上手に焼いたら、おしょうゆをかけて食べます。三つ目はゆでたまご。「9時に帰るはずのママが帰らなかった場合は残業ってことだからね」の約束です。9時を回れば納得して最後のひとつをゆでて食べます。あとはお風呂にはいります。


 ────午後10時・晴れ
 「ママへ。インフルエンザだって。おやすみなさい」
 4時限目の最中に高熱に気づいた先生が、校医さんの診療所に連れて行ってくれました。鼻をくちゅくちゅされて痛かったし、もらったお薬をすぐその場で飲まされて苦かったけど、もやもやがとれて少ししんどくなくなりました。お医者さんも担任の先生も「帰ったらすぐにおうちの人に言うんだよ」とか「大丈夫?自分で言える?先生がお電話しましょうか?」と言いました。新任の樅子先生は若い女の先生で、やさしいです。わたしは自分でできると言いました。「学校には内緒ね」と片眼をつむって、アイスクリームを買ってくれました。用水路の縁に腰掛けて食べたら、いままでで一番おいしかったのでびっくりしました。だって、そのアイスクリームはいつもわたしが自分で買って食べているのと同じものだったんだもの!途端に秋の青空が息を吸ったり吐いたり、幸せそうに生きて見えました。だからこの嬉しい気持ちをとっておけるように、日記帳に書いています。嬉しいと、削ったばかりの鉛筆がいい匂いなのにも気づきます。
────午前1時・晴れ
〜クローゼットのピザ〜
 熱で、額の真ん中あたりから“もやもや”がでてくる。三九度になると、いつもこれだ。湯気の光って艶々した水滴が、部屋いっぱいにもやもや見える。眩しくて顔を反対に向けると、いつものクローゼットが見える。普段と違う方向へ見上げると、ママが産まれるずっと前からあるというその棚の中には、薄いリネンがいっぱいに折りたたまれている。整頓してるのにぎゅうぎゅうになって、息苦しそうに見えた。湯気のようなものが迸っていて、眩しくて、温かだった。不意に、なんだか懐かしい甘えたい記憶に似た感覚に襲われて、ふらりと立ち上がったわたしは、その棚のリネンを覗き込む。象牙色の古い布地はどこか瑞々しく、湯気の呼吸を繰り返している。あれえ?朦朧とした視界の愉快さ、これは高熱のせいかな?わたしは手を伸ばす。細くて白くてひょろ長いわたしの腕は敏感に冷めていて、スッと差し込んだリネンとリネンの奥の方から、ジュッと熱い生気を受けとった。香ばしくおいしい匂い。焼けたトマトと焦げたチーズの匂いだわ。うっとりとして、クローゼット越しの窓ガラスをぼんやり見つめると、黒い仔猫が木枠を伝って器用に歩いて行き、一瞬こちらを振り返った。そしてビョンと跳ねて青い空に消えた。 

────午前3時・晴れ
〜洗濯機のクリームソーダ〜
 だってあったんだもん。真っ赤なチェリーも、あったんだもん。シュワシュワのお空も。あったんだもん。
 煙突には絶対死なないおじいさんが住み着いているのだとか。いつかの文化祭で高学年のおねえさんたちが演じた物語。それが現実にあったんだ。クリームソーダはあるんだってば、本当にそうよ、生えてくるみたいにそこら中を波打つの。枕元に白い人影が見えた。透き通っていた。ママだと思ったけれど、目が覚めたら「そういえばインフルエンザだった。学校もやすんでいたのだった」と思い出した。枕が汗で熱くなり、蒸気が見えた気がした。今日お利口に寝ていれば、パパとママがピーチパイをお土産に帰ってくれる。だから元気にならなくちゃ。白猫の『ミー』と食べるつもりだ。再び、急激に眠気が戻ってきた。尖塔の赤い窓はステンドグラスなのだけど、縁日でいつも買ってもらう『林檎飴』にそっくりだ。大きな体のおじいさんが金の椅子に腰掛けている。大きなおひげは真っ白い雲みたい。「そっか」わかったぞ。おじいさん、サンタさんなのね!エメラルドグリーンのまあるい地球の水晶をしっかり握って、背もたれにもたれてお昼寝中。おじいさんの椅子の向こう側には、あのクローゼットが見える。あれ?わたしの家のとおなじだわ。ほんのりピザの焦げた匂い。サンタクロースは鼻をピクピクさせて、それから大きな大きなあくびをした。怒号のような唸りが聞こえて振り向くと、その音は洗面所の方から聞こえているのが分かった。カタカタ、ガタガタ、と機械音が張り裂けんばかりの悲鳴をあげている。ママがお洗濯しているのかしら、帰ってきたの?ママ?我に返ってお布団から起き上がった。するともう音は消えている。洗濯機を見に行ってみたけどコンセントも抜いたまま。お布団に戻ろうと思って、でも喉が渇いていたのでキッチンに向かった。するとそこには大きな大きな、クリームソーダがあるじゃない!?パフェの容れ物みたいな、大きな大きなグラス。そこには塔のようにバニラアイスが乗っていて、さらにチェリーがてっぺんに。まるで、胸を張って自慢げに立っている。堂々としたそのエメラルドグリーンのシュワシュワは、ガラスの外側に冷たそうな雫をつーっと走らせる。「うわあ!」とそれを手に取ると、私はがぶがぶ飲み干した。本当においしかった。キッチンの木枠のガラス窓の向こうに白鳩の飛んでいくのが見えた。熱冷ましを飲んでから、わたしはお布団にもどった。すると今度は、羊の夢をみた。ぬくぬくと暖かなまどろみだった。



────午前3時半・晴れ
 〜紅茶の精の王子様〜
 『オットくん』は突然やってきて、いきなりそのまま住み着いた。食器棚の調味料ケースの中で瓶に混じって暮らしてる。犬が怖いらしく吠え声を聞くと「ぎゃああ」と悲鳴をあげてぶるぶるふるえているので、分かってしまう。病院で処方してもらったお薬の中に、トローチみたいなものと、そして咳止めシロップが入っていた。小さなボトルに目盛が刻まれて、一回に10ccを付属のカップで計って飲むのだ。これがどうもへんな匂いがするし、色も変わっていて嫌だった。だから私は飲み込んだあとにはキッチンへ行って、はちみつを一掬い舐める。するとあのへんてこなお薬くさい味がスッと消えるのだ。ついつい咳止めシロップの回数よりもたくさんの回数を、はちみつ舐めにキッチンへ通い詰めた。冷凍庫に凍らせたバニラシェイクがあるから、喉の痛みも心の悲しいのもスッキリ新鮮になる。そんなときだった。オットくんが蜂蜜瓶に掴まって立ちながらオロオロと私を見ていた。「つかまえないよ。だいじょうぶ!」にっこり笑ったわたしをみて、オットくんも笑った。オットくんは子供なのだということだけは分かった。他になにも知る必要はない。私とおんなじ、こどもなのだ。だったら、遊ぼう!!

────午前3時48分・晴れ
〜水槽のなかのお魚はパパ〜
 パパは優しかった。ずっと前はね。でもママがお仕事へ行くようになったら笑顔がなくなった。でもみんなで海水浴も行ったし、高原の大おばあさんのお家にも行った。毎年夏休みになると一〇日間は泊まった。それは臨海学校やバードウォッチングをした三年生の合宿所みたいで本当に愉快だった。草花を摘んで調べたり標本を作ったり、留守になってだれもいない自分たちの家へ手紙を書いて出したりした。湖もあって、月のよく見える夜には近所の人が湖畔に集まった。大おじいさんはキャンプファイヤーをやってくれた。その時は必ず、飼い犬も参加した。みんなで可愛がっている「けん太」という名の雑種だ。少し離れたところに小さな牧場みたいな、老夫婦の経営している農場があって、そこの牛乳をよくもらった。濃くて、でも生温かいのを飲む時、なんだか少しドキドキしてしまう。だからわたしは、心の整理整頓と準備運動をかねて「けん太」に先に飲ませてやっていた。けん太がやって来て、わたしに牛乳ちょうだい!とねだる。自分以外の生き物が、おねだりしたり、頼りにしたり、信用したり愛したりしてくれるの。私にはきっと一つもなかったから、けん太をかけがえなく大切に感じたし、何より大好きだった。犬っていう感覚ではない、弟だと思った。「ね、ママ?けん太も、わたしと一緒にママのお腹から生まれたのかなあ?」ママは眉間をぎゅっと寄せて超やな顔をした。すごくすごく怒ってるんだ。ママは何も声を出さない。発しない。その日を境に何にも話さなくなった。わたしとだけ。

────金曜日 夕方5時23分・みぞれ
漆黒という言葉を知った。国語辞典を閉じる。水道をしめる。時計のデジタルが動いた。
 水槽の小魚にフレーク状の餌を撒いてやりながら、わたしは自分に言ってやった。「いいんだ。けん太がいれば。けん太さえいてくれれば、わたしは」あの日の夕方はママが口を聞いてくれないから、わたしも声が出なくって、涙も何にも出なくって。そのあと誰もいない歩道で悲しみと混乱とが大爆発した。霧雨の中、緋色の雨傘をわざと車道に投げ出したわたしは、目を閉じたまま全力で走った。けん太に会いたい。駆け抜けてけん太を抱きしめたら、一緒に疾走しよう。けん太はきっといつもみたいに喜んで、ずっとわたしのそばにいる。だからけん太に早く会いたい。そうだ、大おばあちゃんの家へ行こう!わたしは最後のバスに乗り込んだ。自分で握ったおむすび持って。ゆで卵も、一つだけ持ってきた。どうせママは気づかない。わたしがいなくたって。わからない。きっとわからない。


蒼い風の中を、蒼い顔の子供が、赤いランドセルを背負い、蒼い道をその真っ青な裸足で歩く。あと少しで星が見えてくる。




────6月午後6時
浜辺で夢を見ながら、ノートの隙間に入り込むやさしい砂粒たちを祓う。風のなでる温もりみたいな感触。人肌の青空は霞む。絡みつく、耳にかけた髪。さっき砂利で切った、かかとの鮮血。わたしの足跡。囚われる足跡。ソーダ味の波。くりかえす爽やかな音楽。チェリーのようなわたしの瞳。噛み締める唇。滲む真紅の味。
────9月末日午後4時32分
レース糸が一本ずつあのふわふわした白い雲から降りてくる。青く澄んだあの高い空から、すっと降りてくる。光が、わたしを掴みに来たんだ。

────4月1日午前2時・晴れ
中学を卒業できない。小学生のあの日失踪したから。頑張っても頑張っても、どれほど何かを費やしても犠牲にしても、大人の目にはいつも何かが不足していた。欠陥の子供だと。伸ばしても増やしてもまだ足りない。まだまだだ、もっともっとと急かされてもちっともわたしは拡がれず、彼らを不満足の葛藤に陥らせた。わたしは気を遣った。もちろん遅刻をしたこともない。テストで上位でなかったこともない。誰ともケンカせず、いじめてもいなければいじめられたこともない。宿題を提出しなかったこともない。制服の違反も一切ないし放課後遅くに外出したこともない。華美も貧相もしたことがない。動物を可愛がり草花に水やりをする。このどれ一つとっても本心からであり、まして虚像の自分なのでもない。大人たちが目配せする。わたしに気を遣う。「体育の時間辛かったら、少し休もうな?」とか「早退してもいいから無理しないでちょうだい」なんて言われる。「お前いじめに遭ってないよな?」なんて事まで言われる。だから、生きようか、それともやっぱりやめようかって、迷い始める。きっと彼らの鼻につき、きっと彼らの気に障り、わたしは彼らにストレスを与えてしまっているのだから。おそらくけん太さえも・・・

夜明けの月を眺めてる。
社会からのメッセージ「人様にご迷惑をかけてはいけません」大人たちの共通の名言。ずっと守ってきたつもりなのに、できていなかったんだ、わたし。

















某年某月某日・某春
────今、ここ

だけど
私は私を生きていい
作れなかったホットケーキ
それでよかった
私の瞼は光を見てる
私の唇はもう結ばない
それでいい
シリアルボウルは自分で手に入れる
白く柔らかいこの手で
血の通った優しい指先で
そのままでよかった
私は私を愛しむ
私は瞼を明ける
夜明けの希望を焼きつけて
このままでいい
私はいつでも朝になる
漆黒からでも朝になる
まぶしいくらいに世を明ける
朝になる





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