琳派の黎明期を築いた尾形光琳&乾山兄弟が合作した角皿です @東京国立博物館
尾形光琳と言えば、日本美術史では欠かせない「琳派(りんぱ)」の、本阿弥光悦や俵屋宗達の後を代表する人物。そのカテゴリー名の由来となった人です。
東京国立博物館(トーハク)にも、その尾形光琳の作品と言われるものを、複数所蔵しています。
その中で最も有名な作品が、国宝《八橋蒔絵螺鈿硯箱》や、重要文化財の《風神雷神図屏風》でしょうか。
ただし、ほかにも「え? これも尾形光琳なの?」と意外に感じるような作品がトーハクに所蔵されていると、先日のnoteで記しました。石を矢で射抜いたとされる中国古代の伝説の武将、李広を描いた《李広射石図》です。
さらに今回、noteしておきたいのが、尾形光琳と尾形乾山の兄弟合作による《銹絵観鴎図角皿》です。
銹絵とは、藤田美術館のWebサイトによれば「鉄釉という釉薬で描いた絵のことです。酸化鉄ですので鉄さびの色で、茶色です」とあります。そして観鴎図とは、そのまま「鴎(カモメ)を観る図」ということ。
ちなみに描かれている人物は、中国の宋代の黄山谷(こうさんごく)という詩人で、角皿の左上に描かれている鳥が、鴎(カモメ)です。
都新聞社の学芸部長まで務めたという金井紫雲さんの『東洋画題綜覧』によれば、「黄山谷に鴎を配して描く、これは山谷が水上浮鴎詩の句『江南野水碧於天、中有白鴎閑似我』から出てゐる。」とのことです。
いつもどおり、この『江南野水碧於天、中有白鴎閑似我』とはどんな詩なのかを知りたくなり、ネットを調べてみると……ものすごく長い詩だと分かりました。例えば東京大学のデータベースには、もう何行何語あるのか、どこからがこの詩なのか理解するのも面倒に感じるほど長大な詩が記されています。ということで、主要部のみを書き出したと思える、大島絵莉さんという方による『黄山谷詩抄物「演雅」の解釈について(PDF)』を参照したものが下記になります。
これをそのままChatGPTに現代語訳してもらったのが下記になります。
そして、わたしが暮らす東京エリアで「鴎(カモメ)」と言えば、伊勢物語で主人公が隅田川で見たという「都鳥(ミヤコドリ)」……このあたりでは「ユリカモメ」を思い浮かべる人が多いでしょう。
たしかに冬に隅田川の河岸にいるユリカモメは「のんびり」とした雰囲気です。
描かれた鳥が、ユリカモメなのかは分かりませんが、京都で生まれ育った尾形光琳は、宝永元年(1704年)頃から宝永6年(1709年)の約5年間を、江戸で過ごしています。Wikipediaによれば「江戸では姫路藩主・酒井家から扶持を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあった。現存する「冬木小袖」(東京国立博物館収蔵)は、光琳が手描きで秋草文様を描いた小袖で、冬木家に伝来したものである」としています。
直接、今回の角皿とは関係ありませんが「繋がってきたなぁ〜」という気持ちになってきます。というのも、尾形光琳が江戸に来て「姫路藩主・酒井家から扶持を得」ていなければ、約100年後に酒井抱一は、尾形光琳の作品に親しく触れることもなく、とすれば江戸琳派の祖と言われるほどにならなかったかもしれないんですよね。
ここまで尾形光琳を中心に書いてきましたが、今回の《銹絵観鴎図角皿》の裏側には、弟の尾形乾山による書が記してあります。今作は、尾形光琳と尾形乾山の合作なわけです。
記されている文字は、「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所居尚古斎」。
「雍州」とは古代中国にあった地名で、都の長安を含む地域をあらわしているといいます。今でも日本の京都を「洛」と言いますが、同じように「(日本の京を含む)山城国」のことを「雍州」と、気取って言っていました。
つまりは尾形乾山がたびたび「大日本国の陶者雍州乾山」と作品に記し、「この皿は、日本人が作ったもの」と宣言しています……ということは、これら兄弟合作の作品は……日本の国内向け製品ではなかったのかもしれませんね。
<参考にしたいけど読んでいない資料>
※特に出光美術館のPDFは、文字が粗くて目がショボショボしてしまい、途中で読むのを断念しました。
柏木麻里(出光美術館)『乾山焼の文芸意匠における<引用>の芸術的意義(PDF)』
徳留大輔(出光美術館)『乾山焼の中に見る中国陶磁』
前野絵里(藤田美術館)『芸術家兄弟の合作』
■銹絵葡萄図角皿
現在、トーハクには、もう1つ似たような、尾形乾山による角皿《銹絵葡萄図角皿》が展示されています。これはウィーン万博への出品作品で、積んでいた船、ニール号が沈没した時に引き揚げられた品の一つです。(数か月前にニール号の引揚品だけで特集を組まれた時にも出展されていました)
こちらは合作ではないの? と疑問に感じるのですが、解説パネルには「乾山」と作者名が記されているだけで、尾形光琳が制作に関与したとは記されていませんでした。
■尾形乾山の師匠、仁清の作品も複数展示されています
前項までの《銹絵観鴎図角皿》や《銹絵葡萄図角皿》などの近くに展示されているのが、尾形乾山の師匠である、野々村仁清の《色絵波に三日月文茶碗》です。茶碗の地の色も含めて、色彩がおしゃれな感じで、江戸時代に作られたとは信じがたいほどです。
もう1つ……現在、トーハクでは『関東大震災と東京国立博物館』という特集展示が行なわれています。その中に、仁清の《銹絵山水図水指》が展示されていました。
関東大震災から100周年を記念した特集ということで、展示品の半数は、地震の際に破損したものが集められています。仁清の同作品もその1つで、関東大震災地には粉々……とまでは言わずとも、バラッバラになってしまいました。
これを震災後に六角紫水さんという漆工家が修復されたものが、展示されています。茶道具などではよく割れたものを漆でくっつけて、さらに味のあるものに仕上げるというものがありますが、仁清の水指も、同様に修復されたようです。
上の書付には、9月1日の関東大震災の激震で破損の厄に遭遇して、その後、六角紫水さんによって修復されたと記されているようです。
ちなみに寄贈者の「島居千代松」さんは、「鳥居(とりい)」ではなく「島居(しまい)」です。はじめは『どうする家康』にも出てくる「鳥居元忠」の子孫筋の、貴族の方かな? なんて思ったのですが、「島居」だと分かって調べ直すと、どうやら横浜の「大野屋」という絹物加工品商の方のようです。
明治四十三年七月七日に横浜商况新報社により発行された『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』には、164頁に島居千代松が記されています。目次では「島居千代松君」と書かれているのに、164頁の本文では「鳥居千代松君」となっているので、当時からよく間違えられたんでしょうね。
なるほど。大野屋の横浜支配人になったものの明治33年には、絹物が売れなくなったんでしょうかね……オーナーの大野屋としては閉店を決めたけれど、その大野屋の名前のまま島居千代松君が店を引き継ぎ、成功を治めたというようなことがドラマチックに書かれています。
この島居千代松君に限らず、この本には横浜の大小の商人……というか自営業の方々が、こういう劇画風な感じで描かれていて、とてもおもしろいです。
以上、今回も脱線しつつ、まとまりのないままに終了いたします。
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