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今も数多くの重文指定の刀が残る、南北朝時代の『長船兼光(おさふねかねみつ)』

刀工の長船おさふね兼光かねみつは、初代と二代の2人が居た。2人とも鎌倉期の人であり、活動年代がかぶっていた可能性も否定できないようです。ただし現在は、初代の最も古い年紀を元弘1331年から1334年まで としています。そして1356年から1361年までの延文のものは、二代と伝えています。

東京国立博物館に展示されている『大太刀<銘備前国長船兼光>』は、「延文二二年二月日」と記されています。この銘記の「二二年」は「四年」の意味です。延文四年、つまり1359年の作刀なので、二代の長船兼光によるものとされています。なぜ「四年」とせずに「二二年」と記しているかと言えば、Wikipediaによれば「これは四の字を漢数字の四を読みから忌み数として避けたものだと推測されている」なのだそうです。

長船兼光

備前国の長船派の刀工兼光は、景光の子と伝え、鎌倉時代末期から南北朝時代前期に活躍した。兼光は、父景光の作風を継承した片落ち互の目刃(かたおちぐのめば)の刃文(はもん)から、相州鍛冶の影響を受けたゆったりとしたのたれ刃へ作風の変遷が見られる。この太刀は、刃長が長く、身幅が広く、鋒(きっさき)が大きく延び、南北朝時代に見られる大太刀の典型的な作品である。上杉家に伝来した。

『e国宝』より

長船おさふね兼光かねみつは、とにかく人気の刀工。南北朝時代に活躍した人なのに、戦国武将の多くが所有し、現在でも各地に名刀として保管されています。

確認されているうち、今回の東博の「延文二二年二月日」の長船兼光を含む13ふりが、重要文化財に指定されています。なお東博には重文指定の長船兼光を2ふり所蔵しています。もうひとふりは、前田家伝来の『福島兼光』です。

また、今回の「延文二二年二月日」の長船兼光については、上杉家伝来とのこと。上杉家には、戦前まで延文年間の大太刀の長船兼光が3ふり伝わっていたそうです。そのうちの2ふりが、東博にあるということ。ほか1ふりは、なぜか戦後にアメリカ軍に接収されたまま、行方不明なのだそうです。

乃木大将に愛された長船派

ちなみに明治天皇御大葬の当日に、乃木希典大将が自害した際に使ったのも、(刀工名が記されていない)無銘ながらも長船兼光だと鑑定されたもの…という人もいます。また乃木神社には、宝物として、自害時に使用したとされる太刀二振ふたふりが残されています。それぞれ長船兼光と長船勝光だとしている記載が、ネット上に散見されます。ただ、乃木大将は何振も所蔵したため、乃木神社に所蔵されているものが、いずれなのかは実際に見たことがないので不明です(もちろん、門外漢のわたしが見ただけでは分かりませんが…)。

乃木神社が所有する中で、重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に委託されている長船派の太刀があります。それが「銘備前国住長船次郎左衛門尉勝光子次郎兵衛尉治光/一期一腰作之佐々木伊予守」(文化遺産データベースより)。

この太刀には「毛利元雄もとお寄進状一通が付属」とあります。毛利元雄は、長州萩藩の支藩筆頭の、豊浦藩(または長府藩、府中藩とも言う)の藩主家。つまり乃木希典の主筋にあたる人。そのため毛利元雄が乃木希典に“寄進”するのはおかしいので、おそらく乃木希典自害後に、乃木“神社”へ“寄進”したのでしょう。また乃木自害後に、遺言通りに乃木伯爵家は一旦は断絶する方向でした。ところが3年後に、この毛利元雄の弟・元智もとのりが乃木伯爵家を再興します(1934年に爵位を返上)。


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