葛飾北斎の天井画で知られる岩松院にあった、戦国武将・福島正則の立派な霊廟
長野県の小布施にある地元のお寺の天井には、およそ21畳分の大きさの、葛飾北斎が描いた鳳凰図があります。そのお寺の名前は岩松院というのですが……葛飾北斎のことを調べなければ、なかなかその寺の名前を聞くことはないように思います。
かくいうわたしも、葛飾北斎の『八方睨み鳳凰図』があるから、この寺の存在を知りました。岩松院と言えば北斎の天井画であり、その絵があると知ったから、行ってみることにしたのです。
■広島改易後に信州で余生を送った福島正則のお墓
岩松院は室町時代の、文明4年(1472)に開山された曹洞宗のお寺だそうです。葛飾北斎(1760年〜1849年)のほかにも、小林一茶(1763年〜1828年)が『やせ蛙 まけるな一茶 これにあり』という、句を詠んだといわれている“蛙合戦の池”が、中庭にあります。
でも、そのほかにもですね……ここは戦国武将として名高い、福島正則の菩提寺でもあり、福島正則の霊廟(お墓)があるんです。
わたしは福島正則のことをあまり知らず、「福島正則は、豊臣秀吉の親戚で、子供のころから育てた、子飼いの武将。それにも関わらず、関ヶ原の戦い前の小山評定では、まっさきに“家康支持”に手を挙げて、それらの功により広島(約)五十万石の大大名となった……のだけれど、ほぼ言い掛かりとも言える理由により、一気に数万石の大名に降格させられた」ということしか知りませんでした……というのも半分嘘で、わたしの誤った記憶では、幕府からの言い掛かりに近い理由により、改易されて、そのまま切腹でもさせられたのかと思っていました。
ただし、正しくは広島藩は改易(消滅)させられたけれど、おそらく関ヶ原直前の功の大きさが考慮されて、信州(長野)の小布施を含む2万石が与えられ(ほかに越後にも2万石余。合わせて4万5000石)、64歳までの余生をひっそりと過ごすことになりました。
この高井野藩の時に、自身の菩提寺としたのが、のちに葛飾北斎が天井画を描くことになった、小布施の岩松院です。
福島正則は、現在の上高井郡にあった屋敷(陣屋? 現在は高井寺)から岩松院への約5kmの道のりを、たびたび馬で参拝しました。その時に使ったといういくつかの馬具が、本堂に展示されています。また本堂の裏手には、福島正則の墓廟が建っています。
本堂の左側から奥へ回って行くと、すぐにアレだなという廟が見えてきます。
境内の案内板には「墓は高さ二・五メートルの五輪塔。台石に『海福寺殿前 三品相公月翁正印大居士』と刻まれている」とあるので、廟の中には五輪塔があるのでしょう。廟の中を覗き込んでみましたが、その五輪の塔は確認できませんでした。
福島正則の霊廟を振り返ると、朱色の屋根の本堂の先に、小布施の市街がよく見えます。
一般的に福島正則は、「広島49万8000石から4万5000石に減封(領地を減ら)されて、失意のうちに世を去ったと思われがちです。ただ、こうして岩松院に来てみると、福島正則は意外とこの信州の田舎町で、住民と交流しながら楽しく過ごしていたのではないかなと、勝手に思っています。
岩松院に訪れたのが、観光客の少ない12月の……しかも30日だったからかもしれませんが、山里に佇む良いお寺でした。
■福島正則が晩年を過ごした屋敷跡
福島正則は寛永元年7月13日(旧暦)に亡くなりました。高井にあった彼の屋敷跡の土地は、幕府に没収された約150年後の天明五年に、高井寺に引き継がれます。
この高井寺をネットで調べると、福島正則のいくつかの遺品が残されているようで、同寺の僧侶によるブログに写真がアップされています。
一つは、福島正則遺愛と伝わる槍の穂先です。刃先の長さは60cm。刃長が2尺(約60cm)を超える直槍のことを大身槍と言うそうなので、槍としては長めの造りといえるでしょう。銘は「義助」と刻まれています。
福島正則が徳川家康から賜ったと伝えられる、小さな「仏舎利」があります。この仏舎利には、仏舎利が福島正則に伝わった由来を記す『仏舎利縁起』が付属しているそうです。その縁起によれば、小山評定の際に、福島正則がまっさきに徳川家康を支持したことに対して、黒の駿馬と仏舎利が贈られたのだそうです。
そのほか、福島正則の肖像画と、信州高井野藩での福島正則の業績を描いた「福島正則公絵伝」も伝承されています。
次に小布施方面へ行く際には、この高井寺に寄ってみたいなと思います。
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