『呉春(ごしゅん)』……四条派の始祖と、大阪のお酒との関係(司馬遼太郎『天明の絵師』)
いつもなら東京国立博物館の国宝室には、部屋の名前の通り、同館所蔵の国宝が展示されています。ただし今年10月から、所蔵の国宝を一堂に会する特別展、『国宝 東京国立博物館のすべて』を開催することから、国宝室には「未来の国宝―東京国立博物館 書画の逸品―」と題して、同館の国宝以外の逸品が展示されています。
そして<2022年9月1日>現在に展示されているのは、呉春『山水図屏風』です。
昨年、この絵をはじめて見たときは、解説パネルに記された「呉春」という名前と、掲げられている屏風の絵を見て、中国の作品かと思いました。ただ、観覧したのがトーハクの本館だったので、もちろん日本人の作品なんだろうなと漠然とは分かっていました。
正直、私の心にはググッとくるものがなかったんですよね。もちろん、トーハクに所蔵されているんだから、呉春は有名な人なんだろうし、掲げられた作品は素晴らしいものなんだろうとは思いました。でも「ほぅ…」と思っておしまいでした。
まさか数カ月後に、トーハクが選ぶ「未来の国宝」として、国宝室に展示されるとは思いませんでした。
それでもう一度、この『山水図屏風』の何が素晴らしいのかを、頭で理解しておこうと思い、昨日はInstagramで、「呉春」と検索してみました。「トーハクへ行った人で、呉春の絵をアップしている人はいるかなぁ?」って、軽い気持ちで検索してみたんです。
そうしたら……みごとにお酒の写真ばかりが並びました(笑)。
なぜ? って思ったのですが、どうやら大阪の有名なお酒で「呉春」というのが、あるらしいんです。私は下戸なので、全く知りませんでした。さらに調べてみると、このお酒の「呉春」は、『山水図屏風』を描いた「呉春」と関係あり……と知りました。さらに敬愛する司馬遼太郎が、呉春のことを『天明の絵師』という短編で描いていたと言うではないですか。
さっそく図書館へ行き、『天明の絵師』が収録されている『最後の伊賀者』を借りて読みました。かつて読んだことがあるはずなのに、内容はまったく覚えていませんでした。
小説は、松村月渓と号していた頃の呉春が、師匠の与謝蕪村の狭くてみすぼらしい家に住み込んでいる話から始まります。
司馬遼太郎は、呉春を「冬瓜あたまであった。…中略…面つきもわるい。眉がふとく、唇があつく、芝居に出てくる悪坊主といった顔である」と記しています。だけれど、師の与謝蕪村蕪村は呉春を「絵は、当節、無双の名手に候」と評していたそうです。師匠からは名手と評価される一方で、周囲の人たちからは「真似るのが上手な、単なる器用な人」といったように評されていたようで、呉春本人も、そう考えているフシがある。
壁にぶつかった弟子に、与謝蕪村は「旅に出る」ことを勧めます。自身が敬愛してやまない松尾芭蕉も、そして自身も、旅することで得るものが多かった。だから弟子の呉春もまた、旅に出れば、独自の画風を体得できるかもしれない……と。
気が乗らないまま、呉春は京都を発して旅に出る……のだけれど、いきなり摂津国の池田に落ち着いてしまいます。
「池田は、上古、朝鮮の織物技術者を集団居住させた地で、ふるくは「呉服の里」といった。その“呉”をとり、呉春と(名を)あらためた。
「呉春はん」
と、土地の人はよんだ。
この土地にいまだに「呉春」という銘酒があるのは、かれの名をとったものである。」(『天明の絵師』より)
呉春は、師から紹介された醸造家の山川庄左衛門家から特にもてなされます。また呉服商の井筒屋の主人、川田裕作からも愛され、家の二階を画室に提供してもらったそうです(『天明の絵師』より)。
トーハクの解説パネルは、この池田で過ごした時期を、「呉春の充実期」と記しています。そして、その充実期に描かれたのが、『山水図屏風』なのだと言います。
そうしてまた『山水図屏風』を振り返ると、たしかにすごそうに見えます……。
これを描くのに、どのくらいの期間を要したんだろう…というほどに細部まで精細に描ききっていますよね。
呉春の池田での生活は、師である与謝蕪村の体調が悪化したことで終わります。池田では、多くの作品を残したので、放蕩に暮れたわけではありませんが、司馬遼太郎は、呉春が閨技を磨いた時期でもあったと小説に記しています。また、そんな楽しい毎日を過ごした呉春が、よく京都へ戻ったものだ……自分のことをずっと見守っていてくれた、師の与謝蕪村を思う気持ちは、本物だったのだろうと。
「天明三年十二月二十五日の暁闇、六十八歳の蕪村は息をひきとった。」(『天明の絵師』より)
蕪村の最期の言葉も記されています。
「月渓、夜はまだ深きや」(『天明の絵師』より)。
その後、蕪村の画風を変えたのは、住んでいた京都の街を焼き尽くした天明の大火がきっかけだったと言います。『天明の絵師』は、家を焼き出された呉春が、避難所となっていた寺の本堂で、円山応挙と出会ったとしています。そして呉春は円山応挙の客分として迎えられます。
「それからの呉春は、美術史にくわしい。(詳しく載っている)
蕪村の画風を一擲し、応挙をまね、ほとんど一年で応挙そっくりの絵をかくようになり、数年で応挙以上といわれ、注文が殺到し、四条通りに大邸宅をつくった。」(『天明の絵師』より)
つまり、美術史で言うところの「四条派」ということですね。素人目に見ると、与謝蕪村の画風を一擲したとは思えず、蕪村に倣った画風が、四条時代の呉春にも見られると思うのですけどね。短編を読んだ後だとなおさら「応挙以上といわれ」たのは、与謝蕪村の画風が残っているからだと思いたいです。
「当時、頼山陽は、『京都の画風は、応挙によって一変し、呉春によって再変した』」と褒めたが、(与謝蕪村の親友である)上田秋成は、円山応挙と呉春の、現世栄達主義を痛烈に批判したといいます。(『天明の絵師』より)
そして司馬遼太郎は、『天明の絵師』の最後で、百数十年後のこんにちにおける、蕪村と呉春、円山応挙の評価について記しています。
「(現在は)蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く…中略…呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。」(『天明の絵師』より)
ええ? 呉春はたしかに(蕪村と比較して)低いかもしれないけど、令和の今は、応挙は蕪村よりも大人気ですよ! と、司馬遼太郎に教えてあげたくなりました。ただ、司馬遼太郎が生きた昭和の前半〜中期は、円山応挙の評価も低かったのかもしれませんね。
「筆者は、むしろ呉春に同情してこの一編を書いたつもりだが、末尾にきてふと迷った。呉春は絵師として、成功したのかどうか。」(『天明の絵師』より)
司馬遼太郎が記すように「呉春は現世で(生きているうちに)名利を博した」のだから、成功したと言っていいでしょう。上田秋成が批判したように、みんなが現世栄達主義を放棄したら、それこそ芸術や美術で生きていける人が少なくなり、それこそ芸術や美術全体が衰退していきそうな気がします。また、司馬遼太郎の時代に円山応挙の評価が低かったように、芸術や美術の評価なんて、絶対評価ではないんですよね。見た人が、どう感じたのかだけであって、評価の高低は、それこそマーケティングで左右できるものです。
それにしても、ここには記しませんが、『天明の絵師』の最後の最後の1行を読んで、心がほっこりしました。
私は、呉春がものすごく好きになりました。