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東博(トーハク)所蔵「伝・豊臣秀吉所用の「|馬蘭の兜《ばりんのかぶと》」のルーツを探る!

先日、ウサギ耳の南蛮胴具足が、「伝・明智光春所用」だった話を書きました。結局、その南蛮胴具足については、解説パネルから「伝・明智光春所用」の言葉が外されてしまいました。

東京国立博物館トーハクには、もっと有名な武将の「伝モノでんものの甲冑」があるんです。

最近の展示品では、伝・豊臣秀吉所用の甲冑「一の谷馬蘭後立付兜いちのたにばりんうしろだてつきかぶと」であり、伝・徳川家康所用の「白糸威しろいとおどし一の谷形兜いちのたになりのかぶと」です。

志賀重就しげなりが秀吉から拝領した馬蘭の兜ばりんのかぶと

一の谷馬蘭後立付兜いちのたにばりんうしろだてつきかぶと

鉢(はち)は鉄黒漆塗の一の谷形で、縁(ふち)を金の沃懸地(いかけじ)とする。後立(うしろだて)にあやめの一種である馬藺(ばりん)の葉をかたどった檜(ひのき)製の薄板を放射状に挿している。三河(みかわ)(愛知県)の岡崎藩士であった志賀家に、同家の祖が豊臣秀吉から賜った兜として伝えられたものである。

文化遺産オンラインより

サラッと書かれていますが、この志賀家の初代は、蒲生氏郷などに仕えていた志賀与三右衛門重就しげなりです。志賀重就しげなりは、戦国武将としてそれほどメジャーではないので、誰ですか? という人も少なくないでしょうね。

ただし、Wikipediaによれば、かなりキャラの濃い方だったとお見受けします。

天正15年(1587年)の岩石城攻めの際に、氏郷から抜け駆けを咎められて追放される。その後、細川忠興の仲介で詫びを入れるが、その際に氏郷より「自分と相撲を取って勝ったら赦す」という言質を得て相撲を取ると、2番続けて氏郷を投げ飛ばした。周囲の者は大いに慌てたが、氏郷はその気概を評価して追放前よりも加増して赦したという。

Wikipediaより

なんだか他に聞いたことがあるような話ですが、主君だからと手を抜かずに投げ倒す志賀重就しげなりと、投げ飛ばした志賀重就しげなりをあっぱれと褒めて加増する蒲生氏郷がもううじさとの、どちらにもハッピーな逸話ですよね。

さて、この志賀重就しげなりですが、旧姓は西村と言い、通称も左馬允《さまのすけ?》と名乗っていました。つまり西村左馬允さまのすけ?重就だったかもしれないわけですが、蒲生氏郷がもううじさとに仕えている時期に、志賀与三右衛門尉よざえもんのじょう?重就に変えました。

いつ名前を変えたのか、いつ豊臣秀吉から甲冑を拝領したのか分かりません。そのため、ネットを検索していると「馬蘭の兜ばりんのかぶとは志賀さんと西村さんという人が拝領したものが有名」などや、「西村さんが拝領したというのは誤りで、正しくは志賀さんです」と言ったことが散見されました。正しくは、拝領したのは西村重就であり、志賀重就でもあります。

ただし、そもそも志賀重就しげなりは、豊臣秀吉から直接拝領したのでしょうか。というのも豊臣秀吉からすれば、志賀重就しげなりは、自分の家臣の、そのまた家臣……つまり陪臣ばいしんなのです。志賀重就しげなりが、合戦でどれだけ活躍したかは分かりませんが、蒲生氏郷がもううじさとを飛び越えて、褒賞することがあるのか……という疑問が湧きます。

↑そう書いていたのですが、後に志賀重就しげなりが仕官することになる平八郎本多家の、まさに本多平八郎忠勝が、豊臣秀吉から褒賞を受け取っていました。当時の本多忠勝は徳川家の家臣で、豊臣秀吉からすれば陪臣です。

東博の公式な画像データで見ると、鉄に黒い漆が塗ってあるように見えるのですが、実際には証明の関係なのか、赤銅(しゃくどう)色に見えました

蒲生家から追放されるも、本多家に取り立てられる

蒲生家の当主が三代だった時に、志賀重就しげなりはお家騒動に巻き込まれて藩を追われます。要はクビになったのですが、Wikipediaによれば「幕府から追放された」とあります。

それでも、やはり比類のない人材だったのでしょう。または戦国大名の間では、名物家臣のように言われる存在だったのかもしれません。またはお家騒動の沙汰を自らしたと思われる、徳川家光の口添えがあったのか、徳川四天王や徳川三傑とも言われる本多忠勝の4代にあたる本多政勝に、600石+400石(鼻紙代?)で取り立てられています。4〜5万石のうちの千石ですから、重用されたと言ってよいでしょう。(本多家岡崎藩分限帳より→翻刻版

新たに主家となった忠勝系の本多家宗家(平八郎家)ですが、譜代大名ということもあってか、引っ越しが多いです。まず本多政勝自身が、播磨国姫路新田藩→播磨姫路藩→大和国郡山藩と変遷しています。その後も同家は、陸奥国福島藩→播磨国姫路藩→越後国村上藩→三河国刈谷藩→下総国古河藩→石見国浜田藩と、一代で1度か2度の引っ越しをしながら、やっと三河国岡崎藩に落ち着きます。

馬蘭の兜ばりんのかぶとも、保存するのは良いとして、引っ越しで動かすとなると大変だったでしょうね。近くで見ると、ヒノキの薄板である馬蘭ばりんが一本なくなっていたり、一本一本がピンと真っ直ぐに伸びて“いない”ことが分かります。

馬蘭ばりんの一本一本が、あちゃこちゃしてますね

大事にされていた一の谷馬蘭後立付兜いちのたにばりんうしろだてつきかぶと

そうは言っても、豊臣秀吉から拝領されてから東京帝室博物館または東京国立博物館に寄贈するまでに数百年が経っています。今の状態を見れば、壊れやすそうな馬蘭ばりんを、よくここまで原型を留めたままで保存できましたね……と思います。

岡崎市美術博物館(中根家文書)所蔵の本多家覚書(翻刻)には、下記の記述があります。

権現様
一 御羽織
       家来之者所持
一 秀吉之冑
一 忠勝冑
一 蜻蛉切之鑓
一 美濃守忠政具足
一 中務大輔忠刻具足
一 同人差物竿共
一 忠信之冑
      以上
右之分正月廿日被差出候処、同廿八日下ル
  但家来之者所持与有之ハ志賀与惣右衛門所持也

本多家覚書(翻刻)

本多家覚書とは、当家にまつわるメモといった感じです。前半には、本多家と親戚関係にある大名について記録されています。その後、上述のように、本多家に伝わる家宝リストが記されています。

最上位に「権現様(東照大権現=徳川家康) 御羽織」があるのは当然でしょうね。すごいのは、二番手に「家来之者所持」という但書とともに「秀吉之かぶと」が、位置していることです。だって自分たちの先祖である、あの本多忠勝の有名なかぶと蜻蛉切とんぼぎりやりよりも、その本多忠勝が豊臣秀吉から下賜された、(源義経の家臣・佐藤)忠信之かぶとよりも、上位に記されているんです。本多家…岡崎藩が、どれだけ志賀家に伝わる一の谷馬蘭後立付兜いちのたにばりんうしろだてつきかぶとを大事にしていたかが分かります。

左が本多忠勝の黒糸威胴丸具足(現在は重要文化財)、右が同じく忠勝愛用で天下三名槍とも言われる蜻蛉切とんぼぎりやり(現在は静岡県の指定文化財)

馬蘭の兜ばりんのかぶとは志賀家が東京帝室博物館に寄贈した?

岡崎藩の分限帳によれば、志賀家の八代目・重高さんまでは記録を確認できました。重高さんの代の当主は、本多忠考ほんだ ただなかと記されています。この方が維新まで残り33年となる、天保6年1835まで治めているので、志賀重高さんの後裔も、あと数代で維新を迎えたことでしょう。

分限帳が途絶えているので、その後の志賀家の詳細が分かりません。ただし、「岡崎藩 志賀家」とGoogle検索すると、まっさきに出てくる「元岡崎藩士」の偉人がヒットしまくります。その名も志賀重昂しげたかさん。Wikipediaの職業欄には地理学者や評論家などと書かれていますが、現在でも岩波書店から販売が続くほどのロングセラー『日本風景論』や、日露戦争を取材した『旅順攻囲軍』や、地理に関する多数の教科書なども執筆した、ジャーナリストや教育者でもあります。

志賀重昂しげたかを調べると、明治大正期に活躍した様子を記す記事が圧倒的に多く、なかなか岡崎藩には辿り着けません。

かすかに分かったのは、父親が「岡崎藩の藩校の儒者・志賀重職しげ??控堂こうどうと号していた」ことや、「この志賀重職が亡くなった時に、志賀重昂しげたかが幼かったために、志賀家が断絶となった」ことなどだ。

上記がすべて事実だとしたら、志賀重昂しげたかが1863年生まれなので、1869年の版籍奉還時には6歳だということ。また藩校の允文館いくぶんかんは1869年に創設されたので、父の志賀重職は版籍奉還までは生きていたということ。その後の1871年に廃藩置県になるため、もし志賀重職が亡くなり志賀家が断絶したとすると、1869年〜1871年の間ということになります。あと少しだったのに……という気がしてしまいますね……。

あと一点、志賀重昂しげたか馬蘭の兜ばりんのかぶとをつなげる文章を、ネット上で見つけています。志賀重昂しげたかは、一時期、元三河の士族の社員が多かった東京の「丸善」に勤めていました。その丸善の主な社員の、それぞれの先祖を記した個人ブログがあったんです。

その志賀重昂しげたかの欄には、次のように記されています。

「 辞書校正係 」
志賀 重昂(しが しげたか)
※日本の地理学者、早稲田大学教授、日露戦争従軍記者
初 代;志賀十左衛門重成
本多政勝公御代より出仕( 本国;近江 )

ブログ『日本橋丸善を愛する私の大切な「宝箱」』の中の
『「日本橋丸善」と岡崎の八丁味噌〜 味噌が繋いだ、岡崎藩士と丸善社員たちの絆』より

これまで何度か触れている『本多家岡崎藩分限帳翻刻版』には、志賀与三右衛門重就しげなりではなく、志賀十左衛門重成しげなりと記されています。おそらく蒲生家から“追放”され、不名誉除隊のような存在だった与三右衛門重就しげなりは、本多家に仕官する上で名前を十左衛門重成しげなりに変えたのではないかと、推測しています。その証拠……とまでは言えませんが、二代目の重時をはじめ多くの後裔が、志賀重就《しげなり》の通称である「与三右衛門よさえもん」もしくは「与惣右衛門よそえもん」を通称としています。

初代が「志賀十左衛門重成しげなり」となっている岡崎藩の分限帳

ということで、志賀重昂しげたかは、ほぼほぼ馬蘭の兜ばりんのかぶとを伝えた志賀与三右衛門重就しげなりの家系だと思われます。

確信を得られる証拠が見つけられませんでしたが、今後、寄贈された側の東京国立博物館から何らかの資料が提示されるかもしれません。また「志賀重昂しげたかの著作に、『俺が東京の帝博に寄贈した』って書いてあったよ」などと情報を寄せられるかもしれません。それを楽しみに、また東博へ通いたいと思います。

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