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映画日記 是枝弘和監督作品『怪物』「トーマの心臓」なのかなあ…

冒頭のイラストは、萩尾望都作品を無断でお借りしています。

今を去る45年くらい前、中学に入学した私は、美術部だか絵画部に入った。男は私も入れて二人くらいしかいなくて、あとは女子だらけだった。その時、三年生の女子の間で流行っていたのが萩尾望都の『ポーの一族』だった。

当時はまだ『別冊少女コミック』に連載中だった。私は大量にマンガを読む子供で、少女マンガも普通に読んでいた。しかし私が読んでいたのは、集英社の『りぼん』『マーガレット』、講談社の『なかよし』『少女フレンド』で、小学館系は読んだことがなかったのだ。

初めて読んだ萩尾望都は衝撃的で、その後、何十年も読み続けることになった。なんで萩尾望都のをことを書いているかというと、映画『怪物』を観ていたら萩尾望都の『トーマの心臓』が思い浮かんで、すっかり萩尾モードになってしまって、映画に集中できなかったからだ。


とりあえず、映画だ。

『怪物』は最初は、シングルマザー役の安藤サクラの視線で映画は始まっていく。しかし、それで終わるはずはないのだ。子供の通う小学校で教師を演じているのは瑛太だし、校長役は田中裕子だ。役者は揃っている。

物語は、やっぱりそのように展開していって、見る人によって真実は異なるという、映画ではよくあるパターンになっていく。ところが、全部の視点が出そろったところで、観客には全容がわかる、かといったら、そうはなっていない。というか、意図的に明快な答えを用意しないようにしている気がする。しかし、そのわりに、どこか雑な印象を受けるのだ。

瑛太の飴玉はなんだったのか、とか、子供に足を引っ掛けて転ばせる女校長のシーンって、必要だったのか、とか、嘘をつく少女とか、細かいが気になることが多すぎるのだ。それに、瑛太は屋上から飛び降りたんじゃなかったのか、だって地面に激突した音がしたと思ったんだけど……。

視点が変わると、他の人物の見え方が変わるどころか、ほとんど別の人物に感じられるのだ。視点が変わると同じ出来事が別に見える、のではなく、視点が変わると、出来事そのものが違った経緯に描かれているのだ。だから別の出来事だ。これって、ルール違反じゃないのか。 

でも多分、それが是枝監督の映画なのだと思う。

小学生たちはひたすらかわいらしくて美しくて、二人の男の子は、ほとんど萩尾望都の『トーマの心臓』のようで、妙に懐かしい。

でも、2023年の現在、同性愛をテーマに扱うのなら、美少年は使っちゃだめなんじゃないか、と思った。もっと地味な目立たない子じゃないと、逆に特権的に見える。特権的というのも、ちょっと違うか。上手く説明できない。もしかしたら、古臭いというコトバが、的を射ているかもしれない。

しかも映画のラストで、二人の少年は報われていないように見えた。少年たちは、安藤サクラや瑛太の救出が間に合わず、嵐で亡くなってしまったかのように見えた。しかし、これだって、第二部の瑛太の視点で、彼が屋上から飛び降りていたら、何事もなかったように第三部に登場してくるのは、おかしい。

その後のショットは、幻想なのだろうか? 台風一過、二人の少年は隠れ家から元気に這い出してきて、雨上がりの太陽の下、緑の中を笑顔で走るのだ。

これが幻想のシーンだとしたら、あの世で道が開けるみたいなこの映画の終わり方には納得がいかない。劇中で、「誰もが手に入るものがしあわせ」なんだと言うセリフがあったが、そうであったら、やっぱりこの世で決着をつけて欲しい。共に生きていく姿を描くべきだと思う。

だいたいなにも問題は解決していないのに、少年二人に明るい未来が待っているはずはないのだ。誤魔化されている気になったのは、私だけだろうか。

映画なんだから、複雑な現実を提示するだけじゃなくって、その複雑さを乗り越えて、一緒にやっていける方法を提示して、それを観客にアンタならどうするって、返して欲しいと思う。

今の世の中、ルールは日々更新されていく。ぼうっとしていると、自分が今、どこにいるのかわからなくなっている。気が付いたら取り残されてたっていうのが日常だ。

良心的な人は、とりあえずは新しいルールを尊重して、自分の身をルールに従わせる。でもそれは、納得とか理解とかではないかもしれない。

でもしかし、世の中、良心的でない人の方が多い。そういう人はルールを尊重しない。そういう人には、映画のようなフィクションが有効だ。映画で啓蒙されて、わが身を振り返るようになるのだ。そういう効能が、映画にはあると、私は思っている。

是枝監督の作品は、そういう今起きている知ってなきゃならない新しいルールに気づかせてくれる、っていう意味で、評価されている気がする。

是枝作品は、映画の持つその効能を意識的に使っているのかいないのか、でも私にはよくわからない。観客に考えさせるというよりは、私にはいつも中途半端に見えるのだ。それに、観客として、バカにされている気がする。

練りに練った脚本で、既存の映画パターンではない新しいものを見せてくれているというよりは、未完成で放り出して、思わせぶりにすましているように感じるのだ。

脚本を読んで確認していないが、脚本では描かれていたところも、もしかしたら端折ったり、撮影したけれども、編集でカットしたとか、そういうツナギの雑さみたいなものを、感じるのだ。

だから、観た者は、自分の身近に引き寄せて、色んなことを考えて、この先を生きていかなきゃならない。まあ、それはそれでこの映画のおかげなのだけど。

というわけで、観終わった後は、やっぱりストレスがたまったのだった。

それに、「怪物」ってタイトルは変だ。片仮名で「モンスター」ならありな気がするが、それにしても、もっとふさわしいコトバがあると思う。「怪物だーれだ」ってフレーズも唐突すぎる。「豚の脳みそ」っていうのも、ピンと来ない。中村獅童が演じた父親は、ありえないと思う。もっと的確なコトバ、的確な父親造形があると思う。


ほとんど自分のための覚書ような文章になってしまった。後で書き直すかもしれない。書き直さないかもしれない。


PS. 坂本龍一の 音楽はとてもよかった。

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