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映画日記 『ミスタームーンライト』老人を笑顔にさせるビートルズの力

笑顔の老人をたくさん見られる映画だった。出てくるのは70代、80代のジジババだ。みんな浮足立って、笑顔だ。ビートルズを語ることが、こんなにも老人たちを笑顔にさせるのか、と、観ているこちらまで幸せになってくる。そういう力が、ビートルズにはあるのだ。

いつものように、アップリンク吉祥寺で観た。客席は8割方埋まっていた。平日の昼間だけど、年齢層は、私くらいか年上が多かったが、若い人もちらほらいた。私は1961年生まれなので、ビートルズが来日した時は、まだ5歳になっていなかった。


ビートルズを語る裕福そうなジジババたち

この映画に出てきて、証言をしている老人たちは、みんな裕福そうに見える。取材を受けている撮影場所も、ほんの一部を除いて、生活感のない装いで統一された空間ばかりだ。老人たちの服装も高級そうで、それぞれが流行にとらわれないオシャレをしている。

とくにババたちは、品がある人が多く、私の生活圏にはいない、というか私とは縁のないタイプの人ばかりだった。そのオシャレが、本人に似合っているのか似合っていないのか、私には判断が出来ない。そういう種類のオシャレだった。

彼等は全員、ビートルズによって人生を変えられた人のようだけど、ビートルズに出会わなくても、生活は安定しており、それなりに幸せな人生をまっとうできる階層の人たちに見えた。

ビートルズによって、生活が変わってしまったのは、財津和夫とマニアの何人かくらいではないだろうか。その意味では、オタク度やフリーク度は、かなり低い人選の映画になっている。

カメラの前で語る=未来の誰かに責任を持つということ



ジジババは、2種類に分かれる。1つは、カメラに慣れている人達。もう1つは、カメラに慣れていない人達だ。

カメラに撮られること、カメラの前に出ることに慣れている人は、コトバも流暢で、これまで何度でも話してきた、すでに出来上がった語りを披露してくれているようだ。そこに、ビートルズを話すことで湧き上がった嬉しさが加わって、浮足立っているように見える。

さらにサービス精神も加わって、もしかしたら、普段よりも、余計なことまでしゃべっているのかもしれない。そんなウキウキした感じが伝わってくる。

カメラに慣れていない人は、人によってはかなり緊張している。おのずと、顔が笑っている。日本人にありがちな緊張笑いだ。でもその笑顔には、ビートルズを語りたいという積極的な思いも重なっていて、嬉しそうな笑顔に見える。上ずりながらも、慎重にコトバを選んで話している様子が、少年少女のようで初々しい。

人は、カメラを向けられると、構えてしまうものだ。構えて、居住まいをただすのが、普通だった。カメラの前では嘘を言ってはいけない、と、正直になったものだ。

カメラの前で何かを語るということは、カメラの向こうにいる人に向かって、語るということだ。生中継でなければ、カメラの向こうには、未来の、不特定多数の人がいる。だから、その人達に向かって、無責任なことは言えない。おのずと正しいことを話そうとする。

ただし、それは、正しいと思うことだから、その人の本当の気持ちじゃないかもしれない。だからカメラに慣れていない人は、とんちんかんなことを話したりする。この映画では、そういうとんちんかんなところも含めて、カメラに慣れていない人の顔が、とてもステキに感じられた。

カメラに慣れている人にも、慣れていない人にも、共通していることは、どこか構えているところだ。例えば、現在の、出産の瞬間からビデオに撮られて育った世代には、カメラに対する構えは最初からなくなっている。しかし、カメラのない時代に生まれ育って、それからカメラを体験した世代には、どうしても構えが残っている。私は自分もそうだから、構えがある人を見ると、どこか安心してしまう。

昔は司会をして、毎日、テレビに出ていた人が、引退後、何年ぶりかでカメラの前に登場したシーンがあった。大ベテランなのに、ドキドキ緊張しているのが伝わってきて、それが新鮮だった。

最近、私は、音楽のドキュメンタリー映画をよく観ている。どの映画も、ミュージシャンの人生や業績を回顧するものが多いので、登場する人物は、年寄りが多くなりがちだ。そんな中に必ず出てくるのが、若作りの芸能人・業界人だ。

彼等がなんで自分を若く見せようとするのか、私には疑問だった。そういう人は、大概、どこか無様でビンボー臭く見えるものだ。年齢相応のかっこよさを体現した方が、自然だし、はたから見てもかっこいいのに、と思う。『ミスタームーンライト』には、そういう若作りの人があまり出てこなかったところも、良かったと思う。

エンディングロールがステキだった。撮影場所は、路上だ。登場するのは一般の人だ。彼等が、自分の最も好きなビートルズの曲名を答える短いカットが連続する。それも101歳のおばあちゃんから始まって、1年齢につき1人ずつ、5歳の幼児にまで下がっていく。

「アド街ック天国」のパクりのようなこのエンディングで、やっと、私と同じようなリスナーの顔をみることが出来て、実はほっとしたのだった。


下北沢のスズナリの前にいる女子高生は誰?


と、このあたりでやめておけばいいのだけど、この先は、やっぱり疑問とか文句を、箇条書きみたいに書き散らしておこうと思う。

なぜか、下北沢のザ・スズナリの外観が映るシーンがあった。ビートルズの看板が出ている。それを女子高生風の美少女が見上げている。このシーンになんの意味があるのだろうか? なんの必要があってこのシーンを作ったのだろうか? なんでスズナリなのだろうか? なんで下北沢なのだろうか?

この美少のナレーションで映画が進行するのならわかるが、ナレーションは女優の満島ひかりだった。この少女は、その後も何回か出てきたのだが、登場する意味がわからなかった。

また、高額な権利とか使用料とか、大人の事情が絡んでいるのだと想像するのだけれど、この映画にビートルズの曲は基本的に流れない。動くビートルズの映像も、ニュース映像以外になかった。それがやっぱり残念だと感じた。

まだ元気で活躍しているビートルズのメンバーだったポール・マッカートニーとリンゴ・スターへのインタビューも、当然のこと、なかった。なぜかジョン・レノンの妹のインタビューがあるが、これはなくても良かったと思う。

観ながら、なんで、今、このタイミングでこの映画を作ったのだろうかと思った。もう数年早かったなら、取材対象者がもっと生きていて、もっといろんな意見が集まっただろうと思った。

とはいえ、作らないよりは作った方がいいに決まっているから、監督にありがとうと言いたい。

先日観た、『モリコーネ 映画が恋した音楽家』のせいだろうか、『ミスタームーンライト』がすごく貧弱に見えた。『モリコーネ』が額縁に入った油絵なら、『ミスター』は、コンビニのカラーコピーのよう見えた。映画の中身とか出来不出来とは関係のない、画面の質、のことだ。この違いは何なのだろうか?

そして、どう見ても、この映画は、テレビ番組だった。映画館で観るものではなく、テレビで見るバラエティ・ドキュメンタリーだ、と感じた。どうして映画じゃないと感じるのか、うまく説明できないが…………。

これもないものねだりだけれど、『モリコーネ』の監督、ジュゼッペ・トルナトーレが作っていたら、ビートルズの曲もガンガン流れていただろうし、リンゴやポールのインタビューも実現させたのだろうと思った。この差は、何なのだろうか? その差は、単に予算のあるなしだけなのだろうか? もしかしたら、他に決定的な理由があるのではないか、と思ったが、私などがいくら考えても答えは出ないのだった。

日本版ビートルズ受容史


このドキュメンタリー映画は、1966年のビートルズの武道館コンサートにまつわる日本人たちの証言集だ。

簡単に言うと、日本版ビートルズ受容史だ。同時に、戦後の日本のポップスの歩みにそくして、ビートルズが日本の音楽界に与えた影響についても取材してあって、これまでにないビートルズ関連映画になっている、とは思う。

ただ、映画では初めてだけど、本や雑誌でたびたび取り上げられてきたことばかりだ。関連書籍も多いし、ビートルズファンなら読んでいる人も多いと思う。

ビートルズを招聘したキョードー東京のプロモーター永島達司に関しては、ずばり『ビートルズを呼んだ男』という野地秩嘉のノンフィクションがあるし、瀬戸口修の『ビートルズも呼んだ男 永島達司 - ビッグ・タツ伝説』もある。武道館での来日公演実現に関係したビジネスマンたちの活躍を描いた本には、佐藤剛のノンフィクション『ウェルカム・ビートルズ』がある。

日本人で最初にビートルズと会ったというミステリー作家の高橋克彦のハナシも、高橋ファンなら知っていることだ。

野地も佐藤も高橋もこの映画に出演しているけれど、彼等の本を読んでいる私には、この映画は彼らの業績の、いいとこどりして出来ている、どこか後だしジャンケンのような映画に感じられた。

なにげ自慢すると、佐藤剛も高橋克彦も、私の郷里、盛岡の人だ。佐藤は盛岡生まれ仙台育ちで、高橋も盛岡生まれで盛岡在住だ。どうでもいいか…。

正直、この映画に特に新しい情報はなかったように思う。また『ミスタームーンライト』という曲名が映画のタイトルになっている理由も不明だ。来日当時のビートルズ特番のタイトルを踏襲したのだろうか? やっぱりこの曲も、映画の中ではかからないのだった。

この映画を作った人は何歳くらいの人なのだろうか? 団塊ジュニアくらいの若い人のような気がする。しかし、監督は、どういう動機でこの映画を作ったのだろうか? 50人くらい人が出ているという触れ込みだけど、どうしてこういう人選になったのだろうか? 

なんで来日時にホテルの内部でビートルズをオフィシャルに撮影した写真家の浅井慎平は出てこないのだろうか? 

しつこく書くが、なんで女子高生のような美少女が出てくるのだろうか? 美少女は、団塊ジュニアの娘みたいな世代だ。美少女が海辺で佇んだりするピンボケのイメージカットは、何の必要があって、撮影されたのだろうか? いろんな「はてな?」が浮かんできた。

こんなことなら、監督が、「私」として登場して、自分でナレーションした方が、ドキュメンタリー作品としてすっきりしたのではないかと思った。監督は何がやりたかったのだろうか? そもそも何でこの映画を作ろうと思ったのだろうか? この映画で何か変化が起こって、新しい何かが生まれたのだろうか? 監督に訊いてみたい。

体験した世代と、後追い世代と、ビートルズを歴史に感じる世代と


コメントをする人として、この映画に何カットも登場していた財津和夫の本を思い出した。確か『人生はひとつ でも一度じゃない』というタイトルの集英社新書だった。書いたのは、NHKの若いディレクターで、財津のドキュメンタリーを撮っている人だった。

その本を読んだときに感じた、若い著書は頑張っているのだろうけど、何かがズレているような、大きく足りないような、違和感とも言い難いものと、同じ種類のものを、この映画に感じるのだった。

また、現役の日本のミュージシャンとして、奥田民生と銀杏BOYZの峯田和伸、 King Gnuの常田大希が出てきたが、この人選は適切だったのだろうか? それぞれ、ビートルズ好きな人なのだと思うが、峯田和伸は、ジョン・レノン展のようなところで、ジョン・レノン由来のバイクにまたがってレノンと同一化した、なんて語るのだけれど、峯田和伸より年長のビートルズファンは、しらけるだけなのではないか?

思い返すと、どんどん、なんで? が湧いてくる。その意味では刺激的な映画だったのかもしれない。

ビートルズに触発されて、日本には何人もの偉大なマニアが誕生している。この映画に出ている人もいるが、次は、ビートルズマニア列伝の映画を見たい、と思った。


PS  監督は、「情熱大陸」など数多くのドキュメンタリー番組を手がけた東考育とあった。よくわからないが、「東考育」というのが、人名みたいだ。東が苗字だろうか? ググってみたら、テレビマンユニオンの人のようだったが、情報があまりなかった。


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