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映画日記 『プラン75』 顔の見えない敵を相手に、連帯できない私たちは、この先も負け続けるのか


6月の28日の火曜日にアップリンク吉祥寺で観てきた。平日の昼間で若い人もいたけれどジジババで三分の二以上埋まっていた。ロック・ドキュメンタリー映画の時にいるオシャレなおばさんは一人もいなくて、本当にそこいら辺の爺さん、婆さんばっかりで、上映前は、お喋りに花が咲いてやかましかった。ガラ携で家族と話をしている人や、一緒に来たおばちゃんどおしで、浅漬のハナシをしたり、妙に生活臭にあふれた空間だった。

怒りを抑えた、くたばれ自己責任!映画なのか?


映画は、静かな映画だった。登場人物の誰かが怒鳴ったり、感情を爆発させたりはしない映画だった。妙におとなしい彼らは、今の日本人そのもののような気がした。

この映画は、「プラン75」という国のシステムが稼働している近未来の日本を描いている。これは年齢が75歳になったら、死にたい人には死んでもらって、国が、安楽死から事後処理までやってくれるというシステムだ。

が、近未来SFのような要素は限りなく少なくて、今の日本の日常の延長みたいな映像に満ちていた。それに「プラン75」は、尊厳死を制度化したというよりは、姥捨て山を国営化したようなシステムとして描かれていた。

この映画では、孤立する老人問題、介護現場の人手不足、外国人労働者の問題、横になる人を排除する公園のベンチ等、今の日本が抱えているいろんな問題への目配せがあって、未来への展望が何一つないリアルな現状が提示されている。作り手にあるのは怒りなのか、あきらめなのか、いまいち、わからなかった。

介護現場で働く外国人が主要な役柄で出てくる。私は去年まで介護の仕事をしていたので、ある程度、現場のことは知っている。アジアからの外国人介護者は、覚えも早く、根性が座っていて働き者だから、現場ではとても重宝される。老人を敬う人が多いので、老人たちからもすぐに愛される。

大抵はベテラン介護士が指導して、一通り仕事を覚えてもらって彼らが戦力になると、今度はベテラン介護士が首を切られる。ベテラン介護士は、外国人技能実習生よりも時給が高いし、補助金が出ることもないからだ。そんな現場も少なくない。

弱い立場の人が上司に相談すると、自己責任というコトバで門前払いのようになることもしばしばだ。介護現場の管理者に、コストパフォーマンスを気にする経営意識のある人は増えたが、福祉の意識のある人はどんどん減っている。結果、コスパと自己責任を盾に、弱い人を排除することがまかり通るようになっている。

現実の日本には、「プラン75」というシステムはないけれど、いろいろな方面で、「プラン75」的なことを容認する方向にあると思う。社会保障制度や介護保険制度の現場は、この映画で描かれているものと変わらないし、多分、もっとシビアだ。

恐怖の人間リサイクル映画『ソイレントグリーン』


子供の頃に観た映画に、『ソイレントグリーン』がある。チャールトン・ヘストンが主演だった。人口問題と食料問題を扱った近未来SFだった。世の中は人間が多くなりすぎて、本物の食べ物は一部の金持ちしか食べられなくなって、その他大勢の一般人は、格安のソイレントグリーンというビスケット様のものを食べているという設定だ。

日本語字幕のある予告を見つけられなかったが、これでも映画の雰囲気はわかると思う。ソイレントグリーンは、グリーンと言うくらいだから、人工植物で、光合成をして出来ているのだった。ところが、本当は、死んだ老人たちの体を再利用して、作っているのだとわかる、という、こわーいハナシだった。

この映画と、たまたま楳図かずおの人肉食のマンガを読んだタイミングとが重なって、私の記憶に刻まれてしまっている。こういう映画は、デストピア映画と言うのだろうか。

顔の見えない敵、連帯できない私たち


「プラン75」も、分類すればデストピア映画になるのだろうけれど、そんなにデストピアな感じがしないのは、今の日本とあまり差がない感じがするからだ。いったい誰が「プラン75」などという制度を思いついて、実行したのか、責任者の顔が見えない、責任の所在がはっきりしないところは、やけに日本的だ。

そして、若い登場人物たちが、「プラン75」というシステムに反発を覚えるのだが、違和をコトバにするわけでもないし、立ち上がらるわけでもない。せいぜいがカメラを見つめる程度で、他人と共闘することがないのも、今の日本を現していると思う。

コールセンターの女の子がカメラを見つめる一瞬のシーンで、作り手は観客に問いかけているのだろうか? 印象的なシーンなのだが、無言で問いかけるシーンは、今の日本人を象徴しているようにも思う。

私たち日本人は、今もこの先も、個的に存在しているのだ。みんなバラバラだ。それがとても今日的で日本的だと思った。

今の日本では、大きなデモはもう起きないのかもしれないと思ったし、私たちは、この先、いいようにやられ続けてしまうのだなとも思った。ヤンキーでない人や、ヤンキーが苦手な頭の良い人・感受性のある人は、この先もずうっと一人なのだなと思った。

老人を敬うフィリピン社会


少し前に読んだ、水谷竹秀・著『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』小学館文庫のことを思った。


この本のエピローグに印象的なくだりがある。著者がフィリピンの行政官を取材した際、孤独死の多い日本の老人が置かれた現状を伝えたところ、その行政官は、困ったなあという顔をして、しかし「みんなまとめて連れてこい!」と言い放ったのだ。フィリピンでは大家族がまだ生きていて、老人は無条件で敬う社会だ。

この映画でも介護施設で働き、また「プラン75」で死体の処理を担当しているのは、フィリピン人の若い母親なのだった。日本に必要なのは、「プラン75」ではなく、プランF(フィリピン)なのかもしれない、などと思ってみたりもした。

そして人生は続く……のか


本来なら、もっと怒りに満ちた告発映画になりそうなのだが、そうはしなかったのは、どうしてなのだろうか。

余談だが、映画のオープニング、若い男が何かをぶつぶつ言いながら、猟銃自殺をするシーンがあるのだけど、そのシーン全部がなくても、よかったと思うし、ぶつぶつ言うセリフの活舌が悪くて、聞き取れなかったのは演出なのか、わからないけれど、聞き取れなくては無意味だと思う。これは、世の中にいらなくなった人は殺してもよいという考えを実行したやまゆり園の事件をモチーフにしているのかな、と思うのだが、それならもっと明確に映像化しないと半端だと思うし、現実の実行犯は、自殺どころか反省もしていないで、いまだに持論を繰り返しているのだから、もっと別の向き合い方をするべきだったと思う。

音楽評論家の中村とうようとか、評論家の西部邁が、この映画を観たら何と言うだろうか? 二人とも自死を選んで実行した人たちだ。私たち一般人は、中村とうようや西部邁のように、仕事をやりっ切ったりはしていないのだが、自死を選ぶだろうか?

映画が終わった後、会場にいたジジババたちは、無言で帰って行ったが、何を感じたのだろうか? 一人一人に訊いてみたかった。私も60歳のジジイだし……。このもやもやとした気持ちをどうしたらいいのだろうか? コトバがあふれてくるようで、コトバにならない。とりあえず、長生きしようとは思う。


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