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映画日記 『アトランティス』止まった時間と動き出す時間
7月4日。アップリンク吉祥寺で『アトランティス』という映画を観る。スクリーンは4。満員で58席だ。観客はジジババばかり20人弱くらいか。若い女性が2人いた。若いと言っても、30代だろうか……。
なんの知識もなく、観に行った。何日か前に、ここに来た時に、チラシを遠目で見ていて、そこに、瓦礫の斜面で、ショベルカーの先についているバケットを桶にして、露天風呂をしている写真が掲載されていて、面白そうだなと気になっていた。
週初めの月曜日だから気合を入れようと思って、観に行ったのだ。なんで気合が入るのかは、よくわからないが……。
なんとウクライナ映画だった。それも、マウリポリ製鉄所そっくりの製鉄所が出てくる。ドンバス地方なんていう最近聞きなれた地名も出てくる。
急にドキドキしてきた。出演している役者もスタッフも関係者も、今はどうしているのだろうか、と思った。男は国内にとどまってロシア軍と闘い、女性や子供は、海外に避難しているのだろうか? そんなことを思いながら映画を観るなんて、人生で初めての体験だった。
1 2025年、対ロシア戦争終結後のウクライナ
映画は、2025年のウクライナ、ドンバス地方を舞台にしていた。10年以上続いたロシアとの戦争が終結して、ウクライナの国土は荒れていた。ウクライナは、ロシアの侵攻を食い止めて、国土を守り切ったその後という設定の映画だった。やけにリアルな設定で、また少し緊張した。
では戦後復興の映画かといえば、まるで違った。生き残った者たちは、生きていくためには、何らかの方法で、戦争で負った傷を癒さなければいけない、という映画だ。でも癒されるか癒されないかは人それぞれだし、人それぞれの癒し方、癒され方がある。すべての人間が耐えて生きれるほど強くはないのだ。
『アトランティス』には、街並みのようなものはまるで映らない。映るのは、ポツンポツンと並ぶ巨大な廃墟だ。内側からだけ映されるアパートは壊れかけていて、とても人が住める有様ではない。
地面には無数の地雷が仕掛けられたままだし、工場などが破壊されて土壌や河川は汚染されていた。戦争が残した傷跡は、人が故郷で暮らすことも不可能にするくらい大きいのだった。
2 家族のもとに遺体を返す発掘作業
主人公は、退役軍人のようで、今は製鉄所で働いて、同僚と暮らしている。が、映画が始まってすぐに、同居していた同僚は、溶鉱炉の中に身を投げて自殺してしまう。
その後、経済的な理由から製鉄所は閉鎖されて、主人公は、隔週の仕事を得る。タンクローリーに乗って水を運ぶ仕事だ。
その仕事の途中で、戦争で亡くなって埋められた人々の発掘をしているボランティアの女性と知り合う。主人公は、仕事のない週は、遺骨発掘のボランティアを手伝うようになる、というハナシだ。
遺骨の発掘とは、土の中に埋められた遺体を掘り出して、情報を記録する作業だ。身元判明の手がかりになるものを写真に撮り、同時にコトバで書類に記録するのだ。何を着ているのか、遺体はどんな状態なのな、暴行を受けた痕跡はあるのか、死因は何だったのか、等、ことこまかく調らべて、記録するのだ。
それらの記録をもとに人物が特定され、最終的には、肉親縁者に遺体が返されるのだ。そのための手がかりを記録しているのだ。そしてそれらの作業は、無報酬のボランティアによって行われている。
遺体を家族のもとに返すことは、人間にとって、とても大切なことだ。私たち日本人だって、80年近く前の戦争の遺骨収集をいまだにやっているし、今年の4月に北海道の知床半島で起きた観光船沈没事故でも、被害者の遺体の捜索に、相当なエネルギーを費やしている。
2011の東北大震災の時も、亡くなった方々の遺体を探し続けている。遺体は、残されたものが生きていく上で必要なものなのだ。発見されなければ、残された者は、探し続けなければならない。
残された者にとっては、肉親が行方不明になった時点から、時間が止まっているのだ。残された者は、止まった時間の中にいて、前に進めないのだ。
遺骨があって、それを弔うことで、時間が動き出すのだろう。だから、遺骨は、残された者が生きていくために、とっても大切だ。
現在のウクライナでも、戦争被害にあって亡くなった人たちの情報収集は、この映画の遺骨発掘のような形で、行われているのだと思う。
3 観る者に考えることを要求するワンシーン・ワンカット
この映画に音楽はなかったと思う。それに、カットで場面が変わることもなかった。カメラは中央に据え置かれていて、その前で人物たちが、長々と演技をするのだ。一つのシーンがとても長い。
カメラの切り替えどころか、移動カメラも、極めて限定的にか使われていなかった。主人公の男が、かつて自宅だったらしいアパートの中に入って階段を上っていくシーンをのぞいて、あとは全部、固定カメラの長回しだったような気がする。
セリフも極端に少なく、説明もないから、なかなか状況を理解できず、観ているのが、ちょっとシンドかった。
シンドイけど、役者たちが、現在、どうしているのか、などと思いながら見ている緊張感があるので、画面から目が離せない。
それに、見たことのない画面ばかりが続くので、真剣に見入ってしまった。見たことのない画面というのは、ウクライナの広大な風景だったり、家具がみすぼらしくて時代がわからない室内だったり、工業用なのか軍事用なのかわからないが、ひたすら巨大なトラックだったりだ。
そういった画面が固定カメラで映しだされるので、観ている方としては、隅から隅までじっくりと観察できる。いったい何が映っているのか、この場面の意味は何なのか、などと、考える時間が十分にある。
これは時間があるというより、考えることを強いる画面なのかもしれない。先日見た、河瀨直美の『東京オリンピック2020 SIDE:B』は、細切れカットの連続で、観客に考える暇を与えない映画だったが、それとは正反対のつくりなのだ。
4 ハリウッド映画には絶対にない名シーン
いくつも印象的なシーンがあった。
なかでも雨のシーンが、とても素晴らしかった。車の運転席と助手席を望むフロントガラス越しのラブシーンがあるのだが、土砂降りの雨で、抱き合う二人の姿が雨で徐々に見えなくなっていくのだ。
野外で、不要な鉄を捨てるシーンも圧倒だった。瓦礫の斜面の上に線路がある。線路には列車が停まっており、列車の荷台には、巨大な鍋のようなものが数個、連なっている。コンテナよりも大きな鍋だ。
その鍋の一つが斜面の下方に向けて、傾けられる。すると、中から、まだ赤く燃えたぎる鉄?が流しだされる。溶岩のように斜面を下る鉄。しかし、鍋の内側には、冷えてしまって流れきれない鉄がまだ残っている。
と、巨大な鉄球を下げたクレーン車が近づいてくる。大きく振られた鉄球が鍋の底を打つと、鍋の底の形に冷えて固まった鉄塊が、ポーンと、外に飛び出して、斜面を転がるり落ちる。そこの斜面は、そうやって処理をする鉄くずの捨て場なのだった。
私が一番、興味のあった露天風呂のシーンは、豪快で気持ちのよいものを想像していたのだが、ずいぶんと違ったものだった。これもワンシーン、ワンカットの長回しだった。
瓦礫の斜面の上に道路があり、その下の中腹にバゲットが置いてある。主人公の運転するタンクローリーがやってきて、道の途中で止まる。主人公はホースを持って降りてきて、タンクからバケットに水を流し込む。
車に戻って、今度は薪を二束抱えてきて、それをバケットの下に置き、灯油で火をつける。ほとんど五右衛門風呂だ。
水がたまったところで、主人公は全裸になって、バケットの中に入る。何度か潜って、全身が見えなくなる。
しかし、薪が二束ではお湯は沸かないと思う。沸くのだとしても、主人公は、まだお湯になる前に、湯船に入っているように見える。どう考えても、時間が足りない。
主人公は、さぞかし冷たい思いをしたのではないか。それに、バスタオルもなしに、出てからどうするのだろうか、と心配になった。
他に風呂がないのか、という疑問も浮かんだし、一人だけで入るには、贅沢だとも思った。でも印象深いシーンだった。
5 現実とリンクする映画
映画の最後は、主人公と、遺骨発掘ボランティアの女性とか恋仲になって、二人が、この地で生きていこうと抱き合うところで終わるのだが、観終わって、私の中に、何一つ、コトバが浮かんでこなかった。
現実のウクライナは、相変わらずロシアからのミサイル攻撃にさらされているし、ベラルーシも中国もインドもブラジルもロシアを是としているようだし、非としている我々だっていまだにロシアを止めることが出来ていない。
そんななので、ウクライナの現状に対して後ろめたい気持ちが私の中にある。しかし、徹底抗戦をしているウクライナ人に対して、積極的に応援できる強い気持ちもない。同時に停戦を呼び掛けるほど、無責任にもなれない。一方で、私は戦わない自由もあると思ったりもしている。要するにウクライナの人に、かけるコトバを私は持っていないのだ。
身近に避難している人がいれば、可能な限り、気持ちよくしてもらいたいと思っている。私のやったことと言えば、駅前で少額の募金をした程度だ。日本が選んだ対抗処置が原因で起きる生活の困窮には、甘んじて耐えなければならないとは思っている。そんな程度なのだ、私という人間は。
そんな程度なので、この映画を観ても、コトバが浮かんでこないのだ。軟弱なので私は簡単に思考停止になる。お前の頭は止まっているよ、と突きつけられた映画だった。
6 サーモグラフィが表す生命の灯
オープニングとエンディングシーンが、ともにサーモグラフィの画面になっている。サーモグラフィというと、以前、『プレデター』という映画で効果的に使われていた。
『プレデター』は、人間狩りを楽しむために地球にやってきた宇宙人と、狩られる人間がなんとかして戦うという、最高にくだらない映画だ。カモフラージュして姿を消している宇宙人を、温度センサーで可視化する手段が、サーモグラフィだった。
『プレデター』では実用的な技術として取り入れられていたサーモグラフィが、『アトランティス』では、命の灯そのものを示す表現として取り入れられていた。
『アトランティス』のオープニングは、まだ生きている人間が、殴られたり蹴られたりした挙句、墓穴に落とされて、土をかぶされるところを俯瞰した映像だ。これをサーモグラフィで映している。穴の中の人の形が、土をかぶされ、色がどんどん黒くなっていく。体温が無くなっていくのだし、生命が無くなっていくのだ。
これはロシアに虐殺された市民なのか、それともウクライナの戦闘員なのか、説明はない。しかし、このようにして埋められた遺体を、発掘して、その状態を記録して、身元を特定し、家族に返そうというのが、遺体発掘の調査なのだ。
エンディングは、抱き合う主人公たちの姿だ。抱きあう二人が、オレンジやピンク色で映し出される。人間の体温=生命=希望を見出すような演出だ。サーモグラフィも、使い方によって、ずいぶんと違ったものになる。
主人公二人が抱き合ったサーモグラフィの画面の前だったか後だったかに、荒野が映る。未舗装の土の道だ。走る車から前方を映した映像だ。
道の両側には、ありあ合わせのもので作った墓標が無数に立っている。墓標の数だけ人が埋まっているのだ。スクリーンのど真ん中、ちょうど道の上に縦書きの字幕で「ここが生きる場所」と出る。
ここがアトランティスなのだ。かつて存在していて今は失われてしまったウクライナなのだ。現実を受け入れて、生まれ育った自分の国で生きていくのだ。それは決意というよりは、どこかあきらめを含んだものではあるけれど、止まっていた時間が動き出すように見えた。
現実のウクライナは、まだ闘いの真っ最中だ。時間が動き出すのは、まだまだ先だ。出演者たち、関係者たちは、今、生きているのだろうか? 私はどうしてみせようか。