映画日記 黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』 ホラー風映画論映画
黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』という2016年公開の映画をネットフリックスで見た。
了解不能な展開が凝縮されたオープニング
出だしの画面は、白い部屋だ。
鉄格子のはまった窓がある。外の景色は見えない。その部屋の中で両手をあげて背伸びをしている男の後姿が映る。
天井に配管がむき出しであり、壁の配線もむき出しの、かなりつくりの古い部屋だ。部屋が白いのは、あとからペンキで白く塗ったような印象だ。
カメラがひくと、そこが警察署内の取調室だということがわかる。男が犯人で、西島秀俊演じる刑事が尋問をしているのだ。
でも犯人は手錠をされていない。かなり自由に見える。
配管や配線がむき出しになっている部屋が取調室なんて、ありえないだろうと思う。
部屋の中にはもう一人、警備の警官らしき男がいる。
その警官は、長いネクタイをしていて、そのネクタイがぶらぶらと揺れたように私には見えた。警備スタッフが、他人から首を絞められる可能性のあるネクタイはあり得ないだろう、と思う。
犯人と刑事は、「モラル」について会話をしている。
犯人は「自分にはモラルがあって、それは刑事のあなたには理解できないだろう」というようなことを言っている。
画面が切り替わり、廊下が映る。
西島が画面の右側から左に移動して、廊下にあるソファに座る。西島は、取調室から出てきたらしい。そこへ階段から降りてきた東出昌大が話しかける。東出も刑事らしい。
カメラが映しているのは、奥に長い廊下だ。
手前の左側にソファがあり、その向こうに階段があり、いや、階段ではなく、別の廊下かもしれない。その向こうに鉄格子のあるドアと、向かい側に他の部屋のドアがある。廊下の両側に部屋があるのだ。
二人の会話から、今、西島が尋問していた犯人は、連続殺人鬼で、8人を殺したらしいことがわかる。
二人が喋っていると、階段の向こうの部屋のドアがひとりでに開く。ドアは全面ガラス張りで鉄格子がある。
慌てて部屋に向かう二人。そこは、最初に見た取調室だった。
取調室のドアは、太い枠に鉄格子が施されていたが、なぜか上から下まで全面がガラス張りで、しかも両開きに見えた。
で、西島がソファに座った時には、カメラの方向が180度違っていることに、やっとここで、私は気が付いた。
ありえないことの連続に、私の集中力が切れそうになった。
取調室の中には、警備の警官が首を切られて血まみれになって倒れていた。犯人が、警備の警官を殺して逃走したのだ。
西島が「犯人が逃げた!」と叫びながら長い廊下を行ったり、来たり、ドタバタと走り回る。
東出昌大演じるもう一人の刑事も、廊下の延長にある別の廊下の壁際のロッカーまで走ってきて、鍵を開けて、中からピストルを取り出す。
どこにでもある、3段とか4段とか5段になった業務用のロッカーだ。いくら警察署の中とはいえ、誰でもが通る廊下のロッカーにピストルが仕舞われているものだろうか、と疑問に思う。
犯人は、そのまま逃げてゆけばいいものを、階段の踊り場で、わざわざ人質をとって、そこ場にとどまる。逃亡のための人質に見えるが、私には不必要な行為に見えた。
そんなことをしたために、犯人は囲まれてしまう。
階段の下に十人ぐらいの警察。途中の踊り場に、犯人と人質のおばさん。階段の上は、やっぱり警察官らしき数人がかけつけて、挟まれてしまったのだ。
自信があるのか、西島が犯人にコトバをかける。
人質解放のための説得かと思ったら、「その行為は無駄だ、お前は絶対に逃げられない」といった意味のことを言う。
東出がピストルを構えて撃とうとする。それを制する西島。
犯人に向かって「人質を殺すことは、手に入れた全能の力を自ら手離すことになるのだ」なんて意味のことを言う。
またしても、ここで、「モラル」がなんとかと、西島と犯人の会話が繰り返される。
西島は犯人に近寄り、背中を見せたところで、脇腹を刺されて倒れてしまう。
犯人はなぜか、その直後に人質の首を切って殺害し、その直後に階下の警官によって射殺されてしまう。
犯人は撃たれる前に何か叫んだかもしれないが、聞き取れなかった。
最初の数分は、多分、そんな展開だった。
この、プロローグに当たる場面からして、私には理解が出来ないことの連続だった。犯人がどうやってナイフを手にいれて、警備の警官を殺したのかわからなかったし、東出がピストルを持ち出すシーンも、理解できない。モラルがどうのという会話の意味もわからない。私には、理解のできない、あり得ないシーンの連続なのだ。
それらを納得させる場面が、何一つないのだ。普通の映画には必ずあるはずの、観客を納得させて進むカットが、まるでないのだ。
映画に文法というものがあるとすると、この映画は、その文法をことごとく外したり、ズラしたり、壊したりしている。それを目的とした映画なのだろうか?
これは映画論映画なのか? 映画論映画なんてコトバがあったような気がする。
一々何か意図が隠されていて、それを読み解けという映画なのだろうか? こんな最初の段階で躓いていたら、私にはこの映画は最後まで見られないのだろう。そんなことを思いながらも、まともに見る気力が失せてしまって、シラーっとして見続けることになった。
撮り方も作り方も私が馴染んだ映画と全く違っている
その後、西島秀俊は刑事を退職して、とある大学で犯罪心理学を教える教員となっている。二時間ドラマやマンガによくあるパターンだ。妻役が竹内結子で、二人は引っ越しをしてきたばかりだ。
新居はちょっと古い一軒家で、立地は鉄道の高架が近所に見える、少し郊外のようだ。どうも稲城市らしい。
夫婦は両隣の家に挨拶に行く。一軒目には、近所づきあいはしないモットーだと、けんもほろろに追い返されてしまう。
もう一軒は、不在だった。翌日、恐らく平日の昼間、竹内結子が一人で挨拶に行くと、香川照之が出てくる。
この隣人が、独特のコミュニケーションの取り方をする不気味な人だった。予測不能な発言と表情と行動をとり、普通人である西島竹内夫婦を不快にさせ、混乱させるのだ。
この隣人との関わり合いと並行して、犯罪心理学者の西島は、東出昌大が演じる元同僚の刑事と、未解決事件の生き残りの女性へ聞き取り調査を進める。
途中からこの二つが交差してくるのだった。
上映時間の半分を過ぎた辺りで、やっとモノガタリが進展しはじめる。それまではいたって退屈だ。
画面は不思議なトーンをたたえている。普通の風景を映していても、どこか独特なのだ。地方というか、郊外のありきたりの風景なのだが、私達が生きている現実の世界とは、少し異なる非日常の世界のような質感がある。野外の景色にも、妙な密室感がある。
2016年公開の映画だ。その割に、時代が昭和の末でも通用しそうな雰囲気なのだ。家の中なんて、昭和40年代の住宅雑誌に出てきそうな色合いなのだ。
だから、撮り方が違うのだと思う。画角だったり、アングルだったりするものが、監督独自のものだからだろうか。
室内が映っても、間取りはまるで理解できない。主人公の家と、両隣の家が建っている位置関係も、掴めない。観客が混乱するように、わざと撮っているのかもしれない。
私はそういう画面にストレスを感じたが、この監督の持ち味として、ファンは多いのではないか、とも思った。
登場人物たちも、全員不自然だ。持って回ったような意味ありげなセリフを、思わせぶりな表情で口にして会話が展開する。
これは娯楽映画なのだろうか、芸術的な前衛映画なのだろうか、映画論映画なのだろうか、もしかしたらホラー映画かもしれないと途中から思いながら見ていた。
途中から、登場人物がみんなアホに見え出してきた。特に主人公の西島秀俊がおバカに見える。センスのない笑えないコントを見せられているような気持ちになってくる。
わざと滑るようにやっているんだよと言われても、付き合う気になれないのだ。わざと、意識的にやっていれば、なんでも許されるのか、と、作り手に腹が立ってくる。
香川照之の過剰な演技は、いつもテレビで見ていた演技だから、取り立てて驚きもしない。またやってるな、としか見えない。
その香川照之の家にある監禁部屋も、演劇のセットにしか見えないかった。いくらなんでも、ありえない、と思う。それに段階も描かないで、覚醒剤のようなものやピストルが容易く出てくるのも、ナシだと思った。私は柔軟性がないから、そういったものを、全部、受け入れられないのだ。
一番気になったのは、竹内結子演じる妻の造形だ。最初から、なんでそんなことするの、という行動の連続だ。まるで一貫性がなく、意味不明の存在に感じるのだ。一人の人間としてあり得ない描き方だ。
演じる竹内結子は、こんな脚本に、納得していたのだろうか。
やっぱりこれはホラー映画なのだろうか? 理屈無しで怖がらせるのは、ホラーの常套手段だ。
しかし、通上のホラー映画は、扱うものや映画の中身で観客を怖がらせるものだけど、この映画の場合、映画の作りかたの色んなところに齟齬をきたしてみせて、それはきっと意図的なもので、見慣れた人にはこたえられない黒沢清監督特有の作法なのかもしれないけれど、その小さな違和感が積み重なって、結果的に大きな不快感や不気味な怖さになっている気がするのだ。
黒沢清という監督は、そういう風に、映画を壊しながらホラーを作っている監督なのだろうか? もしそうなら、プロの脚本家の書いたきっちりとスキのない脚本で、黒沢監督が撮った作品を観てみたい、と頭の出来が単純な私は思った。より壊し方が際立つと思うのだが……。
そうでないのなら、もう勘弁かな、と思った。この映画も、何回も見たら、その都度、細かな発見があるのかもしれない。そういう仕掛けがいっぱいの映画ではあるが、私は勘弁だ。
私の貧弱な黒沢清体験
実は私は黒沢清の映画はあんまり見たことがない。ちゃんと見るには今回が初めてな気がする。海外での評価が高い監督らしいことくらいしか、知らないのだ。
以前に、小泉今日子が出た井の頭線沿線でロケをした映画があった。確か『東京ソナタ』という映画だ。同じく吉祥寺界隈で撮影された『グーグーだって猫である』と間違って、見に行ったのだ。退屈で、途中で寝た記憶がある。それが黒沢清の映画だった。そういえば、『東京ソナタ』には香川照之も出ていた。
綾瀬はるかが主演で、アニメと実写が合体したような映画もあった。GyaOで、早送りして見た。タイトルは思い出せない。調べる気も起きない。すいません。それにも、小泉今日子が出ていた。
GyaOでは、長澤まさみと長谷川博己が出た、セカイ系みたいな宇宙人侵略映画もあった。あれも黒沢清だ。こっちにも小泉今日子が出ていた。やっぱり早送りした。タイトルは……思い出せない。
だから、私は黒沢作品を4つ見ている?ことになる。そのうち3作は小泉今日子が出ている。
どれも娯楽映画とは程遠い、しかし芸術映画でもない、おかしなテイストの映画だったことは憶えている。
確実なことは、私は黒沢映画とは相性が悪いということだ。
全部、貧乏のせいにしたくなった
『クリーピー 偽りの隣人』を見て、一番感じたのは、日本映画は貧乏なのがいけないのだということだ。
黒沢清作品の難解さの元凶は、全部、制作費が足りないところに原因があると、私は勝手に思うのだ。理解できなものに接した私が、理解できないのは自分のせいではなくて、他のせいにしようと考えだした結論といえないこともない……。
潤沢な制作資金があったら、こんな小手先に意味を潜ませるような映画論映画なんか作らないで、ストレートに娯楽映画を作ってるような気がするのだ。
これは、先日見た、石井岳龍の『箱男』にも感じたことだ。
予算がすぐに限界に達するので、映画の室内ロケを、演劇の舞台セット程度にしか、再現度出来ないのだ。潤沢な予算があったら、もっと違う画面になっていたのではないか、と思うのだ。
本当は、もっとちゃんとしたイメージがあったのだが、予算の関係で、現実的な撮影範囲が狭まって、物語もセットもこんなになっちゃったのではないのか。
低予算のために描かれなかったものが多すぎるんじゃないか。
と思うのだが、私の思い過ごしかもしれない。
極論すると、本当は、そんな予算で映画を作っては駄目なんじゃないの、と思うのだ。
いつものように身も蓋もない、底の浅い結論になってしまった。