映画日記『パワー・オブ・ザ・ドッグ』映画は映画館でみるべきだと思った
のうがき
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』という映画を、ネットフリックスで見た。
ネットフィリックスは、インターネット配信だ。何かを見ると、次に同じような傾向の映画が自動的に紹介される。ということで、似たような映画ばっかりを見る羽目になる。西部劇を見ると、西部劇ばっかりが紹介される。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』も、クリント・イーストウッドの『クライ・マッチョ』なんかを見て、紹介されるようになった。何度もしつこく出てくるので、暗そうな映画だったけど、つい、見てしまった。
タイトルを直訳すると「犬の力」だから、原作はドン・ウィンズロウの『犬の力』かと思って、ちょっとわくわくしたが、まったく違った。アメリカ南部とメキシコを舞台にした麻薬を巡る30年戦争のハナシなんかではまったくなかった。そういえば、原作小説が本屋さんに並んでいたなあと思い出した。
タイトルは、でも、旧約聖書からとったのだろう。なんでいまさら聖書なんだと思うが、そんな風に感じるのは、私が日本人で無宗教だからだろう。
ということで、この映画に関する知識は、ほぼない状態で見た。途中、退屈だったので、二度ほど、早送りした。ごめんなさい。
本当は有色人種が多かったカウボーイ
この映画は、1900年代の前半のモンタナ州を舞台にした、カウボーイなんかのハナシだった。第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間が舞台だから、西部劇とは言えないのかもしれない。そして、ほぼ白人しか出てこない映画だった。
西部開拓史などの本を読むと、カウボーイは、黒人、中国人などの東洋人、メキシコなどの中南米の有色人種がいて、白人は過半数に満たなかったとあるから、この映画は、最近に作られた割には、古い西部劇のイメージをそのまま踏襲しているようだった。
それに、史実では、カウガールと呼ばれる女性たちも相当数いたというから、私たちの知っている西部劇と、現実とは、まるで違っていたようだ。
でもこの映画は、最近に作られたものらしいから、マッチョな男の同性愛も微妙に描いていて、それがこの映画の大きなテーマだったりする。
でも、どこか少女マンガっぽかった。
少女マンガと書くと語弊があるが、例えば、高村薫の小説を読んでいて、ある瞬間に、著者は女性だったな、と感じさせられることがある。それと同じような感覚を、この映画を観て覚えたのだ。なんだろう、やっぱり男を見つめる視線とかが、ずいぶんと違った感覚に感じたのだ。
女性が描く、男と男の同性愛は、男が描く、女と女の同性愛よりもずっとましだけど、やっぱりどこか違う気がするのだ。それに、同性愛を扱うのに、美少年を出すのは、もう、違うんじゃないかと思う。
そういうことも含めて、この映画は、女性の感覚で作られた映画のように感じるのだ。監督は女性なんだと思う。調べればすぐにわかるのだろうが、何もかもが面倒くさい。だって、ネットフリックスだし……。
インテリマッチョの苦悩
主要な登場人物の一人である「フィル」という男が、とても複雑な人物だった。
男らしいことを鼓舞するカウボーイなのだけど、同性愛者だ。イェール大学だかの出身で、ギリシャ語とかラテン語も解すらしい。楽器演奏能力もあって、バンジョーを軽々と弾きこなす。でも、風呂に入らないのでにおうらしい。たまに沼で水浴をするくらいなので、本当に臭いのだと思う。フィルという男は、こんなふうに引き裂かれた感じで、なんだかやたらと痛ましい存在なのだ。
フィルは、ブロンコ・ヘイリーだか、ブロンコ・ヘンリーという、伝説のカウボーイを崇拝していて、ヘイリーだかヘンリーは、カウボーイの何たるかをフィルに教えるとともに、同性愛の導き手でもあったように描かれている。
ブロン・ヘンリーだかヘイリーと似たような名前で、「ブロンコ・ビリー」を思い浮かべたのだが、ブロンコ・ビリーは、クリントイーストウッドの映画の題名だったか。たしか「ワイルド・ウェスト・ショー」の巡業一座を巡るドタバタしんみりな映画だった。
ブロンコ・ヘイリーだかヘンリーは、西部劇や西部開拓史の本でその名前を読んだ記憶もないし、この映画の中でもアウトローとしては描かれていないので、デイビー・クロケットやビリー・ザ・キッドやジェシー・ジェイムズのような実在の人物ではないのだと思う。
ミステリー映画だったのか?
このフィルという人物は、映画の最後で、死んだ牛から炭疽病をもらって、亡くなってしまう。あっけなく死んじゃうのだが、でもそれは、苦悩からやっと解放されたように見えた。
この映画の中では、フィルの弟が結婚した女性の連れ子の「ピーター」という華奢な美少年が、途中からどんどん存在感を増していく。それと共に、映画もミステリーみたいになっていく。
ピーターは、フィルを虜にして、いつの間にか支配しているし、フィルの死は、ピーターが仕組んだのではないか、という余韻を残して、この映画は終わりになる。
この最後の余韻というか、思わせぶりなシーンが、実は随所にあって、この映画に一貫したトーンを与えている。
ああ、そうか、何度か出てくる手袋のシーンとか、思わせぶりなわけではなくて、伏線になっていたのか、と、今、気が付いた。もしかしたら、とっても計算しつくされたカメラワークの映画だったかもしれない。
やっぱり、映画は、早送りなんかしながらテレビ・モニターで見てはいけないのだなと思った。
映画は映画館で観るに限る。
余談
ところで原作は、ゲイ小説なのかなあ? そうだったら、ゲイの監督が撮ったほうがしっくりきたのではないか、と単細胞なことを思った。
そういえば、何年か前に『ブローバック・マウンテン』というのがあった。カウボーイの男二人の、何年にもわたる恋愛を描いた作品だった。映画化されて、多分、それに合わせて原作小説が翻訳本になったのだった。
私は映画は観ていないが、原作小説は読んだ。私が読んだのは文庫本だったし、それもブック・オフの100円コーナーで買ったのだから、映画公開からは何年かあとだろう。
著者の名前も忘れてしまったが、小説は短編小説で、翻訳がクソだった。出版レベルに達していないひどい翻訳だった。
小説は多分、普通の恋愛小説だった。男たちは、カウボーイとロデオ乗りだったか。西部劇っぽいのだけど、時代は現代で、その意味では、コーマック・マッカーシーの「国境三部作」みたいだった。
翻訳のクソな印象ばかりが残っているが、文庫本そのものも印象深かった。
字組はすかすかで、総ページが100ページもなかった。やたらに薄い本だった。背表紙が、あんまり薄いので、昔の岩波文庫星ひとつみたいで、つい買ってしまったのだ。
しかし、あんなに短い作品なのに、なんで訳文をチェックできなかったんだろうか。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と『ブローバック・マウンテン』は、カウボーイが出てきて、同性愛を扱っているところは共通しているが、多分、なんの関係もない。でも、思い出したから、メモしておく。
映画館に行きたくなったが、自宅で見られるネットフリックスは便利だ。
このまま、どんどん堕落していくような気がする。