「データ」の話にほしかった、「人」の話(11/01 COMEMOイベントレポート)
前説:尖った質問集
昨日、またまた日経COMEMO主催のこちらのイベントに参加してきた。
来て早々、早速尖った質問が複数用意されており、暫し考えていた。
各問いに対して簡潔に答えを明記するならば、下記のようになる。
Q. 会社が、従業員の内面のデータを集めてそれぞれの集中力やストレス値などを算出する技術を導入することに、賛成ですか。反対ですか。もし実体験があれば、そのエピソードも含めてご意見をお聞かせ下さい。
A. そもそも、その「集中力」、「ストレス値」を算出し、どのように活用するかによる。例えば、「集中力」が著しく低くなっている者に対して、体調不良なのだからと早引きを推奨するのか、集中力が低いことを叱責するのとでは、データ活用の意味合いが大きく変わってくるからだ。
結局すべてはデータを活用する側の人に依拠する技術だと思う。
Q. 自分の内面に関するデータの中で、会社に把握されても構わないものと、把握されたくないものはそれぞれ何ですか? ご意見と、その理由をお聞かせ下さい。
A. 把握されて構わないもの…体調などのコンディション(働くにあたって雇用者も労働者側も双方安心して働けるようになるから:無論前述のとおり、データの活用する側の人間のやり方に応じては、何一つ把握されたくない)
把握されたくないもの…家庭の事情、帰り道何をやっているか(仕事とその後の個人行動までは把握されたくない。公私を分けてもらわないと困るから)
Q. AIによる故人の人格の再現という技術が利用できるなら、あなたは利用しますか。利用するならば、どんなことに使いたいと思いますか。利用しないならば、その理由はなぜですか。
A. 絶対に利用しない。なぜならば、故人は過去の人であり、葬られた人である。亡くなられた人をデータ上のこととはいえ「生き返すこと」は、どうしても死者への冒涜だと思ってしまうから。残された生き残った人たちの心の中に生きていればいいと思う。
また、死者との会話を楽しむということは、自身の人生を歩むということに対して前向きなことではなく、むしろ後ろ向きなことであると考えるから。それは死者への未練に他ならない。
Q. 自分の人格をAIで再現し「もうひとりの自分」を作る技術は、利用したいと思いますか。利用したいなら何に使うのか、利用したくないならば、その理由を教えて下さい。
A. 絶対に利用したくない。端的に気持ち悪いから。
自分との対話は、ペンを手に取りノート開いて、紙に書いて考えればそれでよい。
もっとも、自分が二人いたら何をしたいかについては結構考えることがあり、
・自分とキャッチボールをしてみたい。
・自分にマッサージをしてほしい
・自分のプレゼンをリアルタイムで客の立場で聴いてみたい。
というのならある。
Q. データの分析が導く「正解」は、どのような場面や分野で人間の判断よりも勝ると思いますか。逆に「この場面・分野は、データ分析ではなく人間の判断が優先されるべきだ」というケースは、どういう場合でしょうか。ご意見をお聞かせください。
A. そもそも、この問いの立て方がおかしいと思う。
なぜならば、データが人間の判断が勝る場合だろうと、人間の判断が優先される場合だろうと、そもそも「ある物事を判断するのはすべて人間だから」である。「データに基づいて決める」という判断を下すのも人間だったら、「人間の判断が優先されるべきだ」という判断を下すのも人間ではないか。
と、考えているうちに、自分の中では「データ」と「人間」の話がこのイベントで聴きたいことの基盤になっていった。
講義: 内容要約
いくつか初めての学びについてまとめる。
・中国は国家に情報を取られても仕方がないものという考えの元生きている。
→個人情報に対する国民性というものも大いにあるのだ。
・日本はデータを取るだけ取って使わない。
→意味もない名刺交換をするのが日本。
→中国は仲良くしないとメリットがない人に対してだけ、名刺交換をする。
→仲良くするメリットがないと、そもそも挨拶をしないらしい。
→スマイル有料なんやな。彼らにとって。
・かくも日本はデジタル、データ収集が、「目的」になりがち!
→あくまでも「手段」であることは忘れてはならない。
→何のために活用するのかを常に意識し、仲間内で共有しないと、すぐに目的化してしまう。
・明治・大正時代は、個人情報駄々洩れの個人帳簿で暮らしていた。
→新選組の土方歳三の借金記録や酒買った記録まで残ってる。
→それがこの50年、商品を管理する商品帳簿に切り替わり、一気に個人情報に対する取り扱いがデリケートになってきた。
→個人帳簿×商品帳簿=ID時代なのだ!
・中国のやたら凄いスーパー、フーマー
・お勘定はスマホで、しかもその場でできる。
・商品も30分以内で店内にてお届けしてもらえる。
・生鮮食品も調理してフードコートで食べられる。
・レジは全部セルフ。
→日本でいう、切符切る駅員さんが自動改札機導入に伴いいなくなって、みどりの窓口とかサービス向上に携われるようになったものかな?
・日本やアジアは地産地消型の流通システムだから、アマゾンのようなデカい倉庫で一元化して流通させる仕組みは不可能。日本には日本固有の流通システムを導入できる余地はまだある。
などあったのだが、このトークセッションを聴いていて、私は徐々に違和感を持ち始めていた。
違和感:「データ」を使うのは誰だ?
それは、今回の話の主役は「データ」であるものの、あまりにも「人間」について語られてないと思ったのだ。
「データ」を主役に語るのは、今回の趣旨ならば当然である。
しかし、その「データ」を取り扱うのも「データ」に基づいて判断して買い物するのも、はたまたその「データ」の間で仕事をする、スーパーの店員さんやコックさんも、全員「人間」ではないか。
「人間」が「データ」を取り扱うということ、という視点を取り上げぬまま、最後までトークセッションが語られたことには、大きな疑念が生まれた。
なぜなら、「データ」に基づいて判断する、ということとは、すなわち「自分の頭」で考えて判断するということではなく、
「自分以外の人の意見の集まり」で判断する
↓
「他人の意見」で判断する
↓
「データ」で判断する
ということならば、すなわち、その人の頭の思考停止を意味することにならないか、と考えたからだ。
「データ」に基づいた判断、というのは極めて「合理的」であると思う。「データ」に基づいた決断をし続けていけば、間違いも少なくなるだろうし、失敗もしなくなっていくであろう。
だが、その「失敗をしない」というメリットと引き換えに、「人間固有のイレギュラーを失う」というリスクを背負ってしまうのではないだろうか。
「人間固有のイレギュラー」。
すなわち「感情」である。
「合理」の正反対をいく代物だ。
「感情」というものを「合理的」に考えたら、かくも「割りに合わない」ものはないであろう。
全くもって「合理的ではないから」し、そもそも「合理」では考えられない。
しかし。
「人間は、100%合理的な生き物なのだろうか?」
「合理的なデータに基づいて100%生きられる生き物なのだろうか?」
絶対違う。
どう考えても合理的で正しい判断を理性でしているのにも関わらず、ついつい非合理なことをしてしまうのが、人間だろう?
感情はかくも合理的とは呼べない非合理極まりない厄介なものではあるけれども、悪い感情ばかりでなく、良い感情に包まれることもあるだろう?
その、かくも厄介で非合理な感情を伴う、「人間」にまつわる話に触れられず、語られることなく、合理的な「データ」の話ばかり終始されてしまった点について、個人的には実に「非合理」であったと思ったのだが、どうだろうか。
データのみで判断をする人間は、果たして人間と呼べるのだろうか?
そんな人間は、果たして人と共に生きる意味があるのだろうか?
そもそも、人と生きることができるのであろうか?
また、データの裏側や中間にいる、生産者の方やスーパーの店員さん、物流を担う人たちやコックさんに対して、あまりにも目を向けなさすぎだったと考えている。
例えロボットで流通させる仕組みを組もうが、スマホ一台でお勘定する仕組みを整えようが、彼ら無くして、野菜や魚は生産されることはないし、食べ物は届かないし、買い物や食事をすることなど一切できないはずなのに、彼らに対して語られることが一切無かったのは、非常に疑問である。
店頭に野菜や魚が売られているのは、決して当たり前のことではない。
その野菜を作る人がいて、箱詰めする人がいて、届ける人がいて、店に並べる人がいて、初めて店頭で売られるのだ。
あまりにも当たり前に置かれすぎている食料品に見慣れすぎていて、その背景に目を向けることを疎かにしていなかっただろうか?
データは目的ではなく手段である、とは言っていたものの、自分から見れば、そのデータの裏側にいる人たち、データをつなぐ人たちに対する無関心さが顕著であった点。
また、データに判断を委ねすぎて、自分の頭で考えて決断することが出来なくなる人を多数生み出してしまう可能性すら大いにあり得るほど、「データ」とそれを活用する「人間」のあり方の話になると思って聞いていた分、「人間」にほとんど触れられなかった点には、大きな疑問が残った。
結論:ロボットな人間になりたくない
データだけで100%判断するのは機械ではないか。ロボットではないか。
だからこそ、帰り道こう考えた。
人間ならば、
非合理な感情こそ、楽しもう。
日常に、イレギュラーを混ぜよう。
と。
例えば、外食する時に、情報サイトに頼るのではなく、ノリやフィーリングでお店を決めてみよう。
思わぬ名店に出会えるかもしれない。
思わぬ不味い店に遭遇するかもしれない。
でもそれは、「不味い店に出会ってしまった話」として周りの人に体験談として話すことで消化することができる。
それはそれでおいしい。
「データ」は、人間が判断の助けにしたり、ツールとして使う道具であるはずだ。
その主客が転倒して、自分の思考を放棄し、データに操られるようになってしまったら、人間、ひいては、あなたがあなたでなくなってしまわないだろうか。
今回のトークセッションでは、そのような懸念を払しょくされることが終始なかったので、ぜひとも次回は「データを取り扱う人間の在り方」の話についても真剣に議論していただきたいと思ってやまない。
今回は、『ドラえもんのび太の鉄人兵団』のしずかちゃんの名セリフで締めたいと思う。
人間を滅ぼしにきたロボット少女リルルの治療をするしずかちゃん。
リルルは人間を滅ぼしに来た自分を治療する人間の心情が、当然ながら理解できない。
「どうして敵を助けるの」
しずかちゃんはこともなげにこう言って返す。
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