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親から逃げた【4章】

毒親に精神的に追い詰められて家から逃げざるを得なくなった未成年の少女の話。

前回のnoteを読まれていない方はぜひこちらを読んでから本文に移っていただけますと幸いです。

シェルターでの1日目(7月10日)はもらったジュースとパンの味で締めくくられた。薄い布団と布団、畳の臭いに囲まれて大泣きしたあとに眠りについた。

シェルター生活2日目は昼前に起き、コンビニで買ったパンケーキとビスケットサンドでお腹を満たす。月曜日になったら生活保護の申請に行くのでしっかり休んでおきなさいね、とおばあさま職員さん…ここから先はNさんと記述…に言われていたのでボーッとしていた。当時の日記にはこんな記述がある。

『信じられないくらい、今の時間が優しい。しぃん、と守ってくれている。あの掃除機をかけていた日々は、領収書を書いていた日々は、頭をフル稼働させ検品していた日々は、疲れた中帰って弁当を作り静かに鬱屈していた日々は。』 

『ぽつん、と優しい森の中に置いていかれた、そんな気分だ。』

『親と同じ空間にいる。これ自体が私にとっては虐待でした。』

それこそ数日前までは仕事をしており、この時は契約終了までの有給消化期間であった。その間に仕事を探そうとしていたが親に出て行けと言って棚をぶつけられ、家を出ていくことにしたのだ。職場とも相性が悪く家に帰っても心は休めずにいた…そんな日々から考えるとあまりにも空白の時間が優しかった。

シェルター生活3日目の朝10:00、Nさんがシェルターの玄関まで迎えに来てくれた。大急ぎで着替えて印鑑や通帳、その他重要そうだと判断した諸々の書類を持って福祉事務所に向かう。初めての事でオドオドしていたがNさんが福祉事務所の職員を呼んでいよいよ生活保護の申請が始まった。

役所の人間は元々嫌いであった。どうせ突っぱねられるだろうと思い、ダメ元で色々な質問に答えていく。現状持っているお金はいくらなのか、親との関係はどんな感じなのか、他に頼れる人や制度はないのか…私が答えに詰まったらNさんが言葉を繋ぎ助けてくれた。これまでシェルターに来た人々を生活保護に導いてるだけあって、非常に物知りで抜け目がなくさすがの一言に尽きる。

時に泣きながら一通りの質問に答え、色々な書類を書いた。私は通帳を2つ持っており、一つは正確な預金残高が分からなかったので一旦福祉事務所を離れ、記帳の為に銀行に連れて行ってもらった。口座の残高が3000円だったのを見て、私とNさんはとても微妙な心境で笑った。

福祉事務所に戻る前にお昼を食べることになった。いつの間にか時間は2時を過ぎていた。近所のパスタ屋さんに連れて行ってくださった。しかもデザート、ドリンクバー付きの一番高いメニューをご馳走してくださった。申し訳なさが勝ってしまいドリンクバーはコーヒー一杯しか飲めなかったがNさんは

「全然気にしないで良いのよ。とりあえず今は好きな物を食べなさい」

と言ってくれた。

美味しすぎたのでまた食べに行きたい
奥にNさんがいる

この後再び市役所に行き、残り3000円になった通帳のコピーを取ってもらい生活保護の審査が始まることになった。Nさんのシェルターを管理する事務所に寄り、そこで小さい円卓とハサミを借りてシェルターに車で送ってもらい、その日は終わった。丸一日を私の為に使ってもらいその上パスタをご馳走してもらったお礼を言ったらこう返ってきた。

「ここ(シェルター)と繋がってくれたからそれで良いんだよ。SOSをくれたから、助けられた。これからは貴方の人生を生きよう。」

求めよさらば与えられんとはよく言ったものだと感心した。踏み出したから、行動したから助けてもらえた。これまでの苦しい状況が変わらなかったのは私が動かなかったからか…と痛感した。

シェルターに帰って淡々と日記に思いを綴る。

『ここは何だ、天国か。安寧の地か。』

『他の音がしないのです。嫌な邪念がいないのです。音楽をかき消してくる人はいないのです。互いに干渉しあったりしないでいいのです。相手の喜びそうな返答を脳細胞を総動員して考えなくとも良いのです。』

そうだ、この記述で思い出した。私は音楽を聞くのが好きでよくスマホで聞いていたが親も同じ部屋で同じ事をしていた。親は音量をかなり大きくしてこちらの音楽をわざとかき消してきていたのだ。しかも私がイヤホンをすると自分の世界に籠もられているように感じるのか、かなり嫌がる。ストレス発散すらストレスになっていた。

この日は疲れと混乱と感謝、色々な感情が混ざって中々寝付けなかった。生活保護の申請がどうなるのか、これから私はどう生きていけば良いのか、親との関係はどうなるのか…薄い布団と熱帯夜の気配に包まれながら目を閉じた。

続く。

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