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この命の理由

ふと母に「なぜ子を産んだのか」を聞きたくなった。

「私は犬だった。常に親のご機嫌を取って兄にはなじられ学校ではハブられ教師にもいじめられた。誰も助けてくれなかった」

事あるごとにこう零していた。
そして続けて私に言う。

「もう誰かの世話焼きは嫌なんだ。私は犬じゃない。私は奴隷じゃない。もう誰かの顔色を伺って間を取り持ったりご機嫌を取ったり…そしてお前の犬でもない。いつまでも人の善意に乗っかってくるな!!!」

そんな母を見てはずっと心の底で渦巻いていた感情に最近名前が付いた。「疑問」だ。

なぜ子供を産んだのか。しかも二人。
もしかしたら産んだ時はどうにかなると思っていたのかもしれない。20年前だから状況もまた違うだろうからわからない。しかしどうしても疑問に思う。なぜ二人も?子供を産めば世話はセットで付いてくるだなんて、誰だって分かるはずなのに。

そもそも人はなぜ子を産むのか。

「子育ては素敵よ〜✨」や「親になれば分かる」や「そりゃ老後のための」なんて言わないでくれ。子育てが素敵かは人によるし親にならずとも子育て世代の苦労している声はあちこちから聞こえてくる。老後の世話をさせるために子を産んでるなら、子の人権という視点から見るとあまりにも非情だ。

子育てをせず自分に無駄な苦労を背負わせず自身の人生を全うするだけではいけないのか。子はかすがいという諺がある通り、子は人生の「かすがい」になり得る。私がいなければ母はきっともっと自由だっただろう。もしかしたら、死んでいたかもしれないほどに。

私は自分に発達障害があり、かつ機能不全家族の中で育って生まれた心の歪みを認知しているからこそまともに子育てをする自信は持てない。仮に謎の自信を持てたとしても自分の人生のクオリティを落とせない。また、発達障害は高確率で遺伝する。不幸な子を産み落とすくらいなら私の代で家系図を途絶えさせた方が良い。

子育て支援だ!少子化だ!とここ数年騒がれているが子を産む理由は明確には見えてこない。国のために子を産んでるならそれはそれで「誰の子供ですか?」となる。「純粋に子供が欲しかったから…」という意見も見かけるが欲しいからというだけで体を壊しつつ赤子を孕んで股からひねり出すのは中々にリスクが高いなぁ、と。

子供が捨て猫を拾ってきたら親は「欲しいからってすぐ拾うんじゃありません!最後まで責任持って育てられるの!?」と注意するだろう。果たして命に対する「責任」を考えて産んでいる親はいるのだろうか。一つの命を生み出す行為に理由なく踏み出せる人間が怖い。子供とはいえ血が繋がっているだけの他人だ。他人の命に責任など取れない。

「理屈じゃないの。心よ、心」なんて意見もあるだろうが反吐が出る。フィーリングで生み落とされた子供だなんて、余りにも可哀想だ。「好きな人と自分、半分ずつの遺伝子で出来てる子…欲しいに決まってる」それならお互い献血でもしあえば良いのでは?腎臓を片方ずつ交換してもいいだろう。

なぜ二人の男女が愛し合った結果、子供が生まれるのかが理解出来ない。そしてそれと同時にこの世に産み落とされた自分の命の理由も分からない。だから母に聞きたい。

「なぜ子を、私を産んだのか」

私の考え方が多数側ではないのは分かる。きっと子持ちマジョリティから見ると異端者だろう。皆が子供という形で幸福の結果を見出す一方で私はそれらとは違う形の幸福を追い、それに縋る。自分の人生を生きたくない人にとって子供というアクセサリーはもしかしたらとても美しく輝くのかもしれない。

自分の命の理由も分からないのに自分ではない命は生み出せない。分かったとしても人生は全て自分のために使いたい。もしかしたら私は母に「母の人生を奪ったのは私だと思わされている」のかもしれないなぁ。他責思考は嫌いだから、やはり子供は生まない。自分の人生から逃げる理由に出来てしまうから。

ご一読感謝。

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