『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、変わらない昭和と、変われない人々と、希望を描いた傑作である
鬼太郎誕生の感想
※ネタバレ注意
『一億総中流の世代』という言葉をご存知だろうか。
1950年から1960年の高度経済成長期、1970年代の安定期を表した東京大学の村上泰亮教授の言葉である。
今では信じられないかもしれないが、かつて高度経済成長期の日本は、「我々でこの国を盛り立てていこう」と思っている人が大勢いた。
昭和22年から24年生まれの、いわゆる『団塊の世代』の人たちは、戦後に奇跡の復興を遂げて希望に満ち溢れた時代を目にしていたのである。
貧富の差が激しい格差社会ではない。
一億総中流で、働けば働くほどお金が貰える時代を生きてきた人々は、モーレツサラリーマンという社会の屋台骨として日本を支えてきたのだ。
だからこそ、日本が貧困になってきた今、メディアもこぞってその明るい時代を取り上げる。
戦前に世界情勢を踏まえて開催権を返上した悲願のオリンピックを再び誘致し、新幹線が開通し、世界一の高さの電波塔である東京タワーが竣工したあの昭和三十年代。
あの頃の日本は、希望に満ち溢れていた。人々は、「あの時代は良かった」と口を揃えて言う。
―――でも、本当に?
そんな『明るく仲良く希望に満ち溢れた高度経済成長期の憧憬』に、真っ向から喧嘩を売っているのが『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』だ。
あらすじと『昭和のにおい』
時代は昭和31年。帝国血液銀行に勤めている復員兵の水木は、とある密命を帯びて龍賀の一族が支配する哭倉村に赴く。
そこで彼が出会うのは、因習蔓延る田舎の住人たち、そして、妻を探しにしたという謎の男だった―――。
そんな導入から始まるゲゲゲの謎は、とにかく全てが生々しい。
たとえば、土蔵にあった座敷牢。
日本では1950年まで『私宅監置』という制度があった。
私宅監置とは、「私人が私宅に一室を設け、精神病者を監禁する制度」である。
平たく言えば、身内に出た精神病者を行政の届出のもと、自宅で治療もせずただ閉じ込めて放置する制度だ。
明治初期までは狐憑きとして座敷牢に監禁されていた病者が、瘋癲院(精神病院)の病床の不足を理由に、医師と警察と行政の許可のもと自宅看護メインに移る―――という制度が存在した時期があったのだ。
当時の私宅監置の様子は、「悲惨」の一言に尽きる。
母屋で監置されているならいい。蔵などの独立した空間の座敷牢に置かれていた者たちは、わかりやすく放置されていたことも多かったという。
垢まみれで糞便で汚れ、湿気も悪臭もひどく、そこに監禁されているだけで病に罹ってしまうような状態だったそうだ。
私宅監置は昭和25年で廃止となり、行政の補助金が出たため各地で精神病院建設ラッシュが起こったが、それまでの長きにわたって人々は座敷牢に監置されていたのだ。
龍賀家配下の長田家の座敷牢は、畳のシミや牢の手入れ具合からして、頻繁に使われていたらしいことを視聴者に想起させる。
鉄製の南京錠というのはとにかく錆びやすく、高温多湿の日本の気候では数年も放置したら確実に錆びる。
哭倉村の座敷牢は、使う時の為に普段から錠前を手入れしているか、私宅監置禁止を守らず現在でも座敷牢自体を頻繁に使用しているか。そのどちらかであろう。
先述のように、ゲゲゲの謎にはじっとりとしたある種の『生々しい昭和の光景』というものが全編にわたって付き纏ってくる。
『ムラ』以外の余所者がやってくる際の、監視するような目つき。
本家と分家衆の確固たる格の違い。
長田家の座る場所も、村長で年長者たる長田は龍賀の生まれではないため一番下座だった。
かつ、嫁入りをした後に生まれた子供だとしても、長男として生まれた時弥の方が、龍賀直系の沙代よりも上座に座っている。
(あの座り方は正面に大きな入り口があって床の間があるので、一番上座が克典と時麿、次に直系の乙米、次に長男の時弥、次に沙代、嫁入りしたが長男を産んだ庚子、未婚の丙江、龍賀ではない村長の長田、の序列だと思う)。
因習村という言葉で片づけることはできない。今では廃れてしまった『昭和の風習』というものが、映画の中で当たり前に息づいているのだ。
そこには、『明るく仲良く希望に満ち溢れた高度経済成長期』なんてものは存在しない。
現代の人が忌み嫌う、『田舎の監視社会』『本家分家』『長男教』というものがあるばかりだ。
『大義』
ゲゲゲの謎の昭和の生々しさの集大成というべきものがあるとすれば、やはり、乙米が『大義』を暴露するシーンであろう。
金儲けのためではなく、屈辱的な敗戦から国を復興し富んだ国にするという『大義』を錦の御旗に、幽霊族を捕らえて血液製剤Mを量産し続ける非道を繰り返す、時貞翁をはじめとした龍賀一族の強烈なまでの目的意識。
一族の女は『大義』を為すための豊潤な霊力を持つ子供を作るための、いわゆる孕み腹となる役割を代々担っており、近年声高に叫ばれている人権などそこには存在しない。
―――そこにあるのは、ただただ日清日露より連綿と続く、富国強兵の意識だ。
昭和14年に日本政府は、年々減っていく出生率に危機感を覚え、兵力と労働力の増強のために『産めよ殖せよ』という国策をスローガンに掲げた。
子供を産んで育てるのは女に生まれた義務である、だからたくさん産んでたくさん育てなさい、という声明を出したのである。
現在の価値観で考えると、なんとも腹立たしい話だ。
今の時代にそんな事を言ったら、ネットで袋叩きに合うだろうし、リアルで言ったら白眼視される言葉だ。だが、当時は当たり前だったのだ。
すべては、お国という『大義』のため。国を富ませて、強い兵を生み出す。そのためなのである。
―――時貞翁、そして龍賀の一族は、いまだ戦争から抜け出せていない。
劇中血液銀行の社長が「戦争はまだ終わっていない」と言うシーンがあるが、彼らもまたそうなのだ。
玉音放送で戦争は終わったはずなのに、彼らの中ではいまだ戦時中なのだ。
日清日露と勝利して自分達は強いのだと夜郎自大になった後、一転して大敗を喫してしまった。
そのせいで屈辱を味わった彼らはきっと、日本が大敗から再び勝利を収めるまで止まらない。
戦中に生まれた、いわゆる焼け跡世代である沙代。
団塊の世代頃に生まれ、いわゆる『戦争を知らない子供達』である時弥。
時代は高度経済成長期に向かっていこうという時なのに、彼らもまた親世代の妄執のせいで、龍賀の中で続いている戦争の犠牲になってしまった。
『大義』のために何もかもを犠牲にして、彼らの中でだけの戦争を続ける龍賀一族。
彼らの中でだけ通用する、いびつな正義が蔓延っている哭倉村。
都会で生まれ育ち都会からやってきた、まっとうな倫理観の水木には、さぞや歪で醜悪な村だと感じられたことだろう。
令和の視聴者にとっても、とても歪で恐ろしい村だと感じられたはずだ。
―――だがそれは、本当に『田舎の因習村で"だけ"起こること』なのだろうか?
『昭和』と『令和』
先日、私人逮捕を主に投稿している動画投稿者が名誉毀損で逮捕されたことは記憶に新しいだろう。
彼らのような一部の動画投稿者は、盗撮や痴漢などの容疑者らしき人を撮影し、その動画を投稿して収益化してお金を稼いでいるのだ。
犯人を追いかけ、時には押さえ込む。怪しい動きをした人を、謝罪するまで取り囲み謝らせる。
時にはかなり過激な事も行っており、起訴されれば肖像権の侵害や傷害罪になる可能性もあるそうだ。
―――『正義のためにやっていることだ』『自分が逮捕して、世の中を良くしてやる』、と。
彼らは口を揃えてそう言っている。
脳科学者の中野信子氏は、著者『人は、何故他人を許せないのか』という著書を出されている。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4776210266/toyokeizaia-22/
『人間の脳は、裏切り者や、わかりやすい攻撃対象を見つけて攻撃することに快感を覚えるようにできている』と言っている。
彼らの言うところの『正義』を行うと、脳内物質のドーパミンが大量に分泌されるので、その快感を一度覚えると、もう抜け出せなくなるというのだ。
自分は絶対に正しいと思い込み、自分の考えに反する相手を過剰に叩き潰して、やがて『正義中毒』になり、断罪する対象を探し始めるのである。
時貞翁をはじめとする哭倉村の住人は、この『正義中毒』の一種であるとも言えるのではないだろうか。
同じ考えの者たちだけで集まり、『大義』という名のいびつな正義を執行することに愉悦を見出し、自分達の正義にそぐわない者たちを排除し、他人を犠牲にすることを厭わない。
日本を豊かにするのは「日本のため」
幽霊族を捕らえて血液製剤Mを生み出すのは「日本のため」
女が一族に身を捧げて霊力が強い子を産むのは「日本のため」
日本のために身を捧げるのが、栄えある哭倉村の使命である。
だから、幽霊族も攫ってきた人々も、龍賀のために身を捧げるのは大義に繋がるのだから、仕方がないのだ―――という、そんな自分を正当化したいびつな正義に溺れているのかもしれない。
結局、昭和の田舎の因習村だって、令和のインターネットだって、やっていることは何も変わらない。
人々は同じ考えを持つ人たちで固まり、自分とは反する考えを持った人間を排除する。
ゲゲ郎が「あの頃夢見た世界とはほど遠く、現代に至っても、みな変わらず心貧しい」という旨のことを言っている。
現代の人が忌み嫌う、『田舎の監視社会』『本家分家』『長男教』は少なくなったが、今度は『SNSの監視社会』『いじめ』という別の問題が出てきている。
人間というものの本質はすぐには変わらない。
格差は広がるばかりで、きな臭い話も多くなってきた。
また戦後の焼け野原の頃のように、貧しい頃の日本に逆戻りしているのかもしれない。
だからこその希望
でも。
だからこそ、作中で変わっていった主人公二人の姿が眩しく見えるのだろう。
はじめは人間を憎んでいたゲゲ郎。
妻を探すことしか頭にあらず、人間を助けることも「憐れみ」と言い放った幽霊族。
そんな彼が、妻のために、生まれてくる我が子のために、友がこれから生きてゆく世界のために、依代になる事を決意する。
はじめは野心にまみれていた水木。
世の中の有り様に怒りを覚えて、強くなることだけを考えてそれ以外は持たないようにしていた男。
そんな彼が、目指していた筈の権力の権化である時貞を「つまらない」と言い放ち、友の妻と子を必ず守ると決意する。
―――人は変われる。
今すぐには難しいかもしれない。だが、生きている限り、変われるのだ。
私の好きな言葉で、『光に向かって一歩でも進もうとしている限り、人間の魂が真に敗北する事など断じて無い』という言葉がある。
人間というものの本質はすぐには変わらない。
格差は広がるばかりで、きな臭い話も多くなってきた。
また戦後の焼け野原の頃のように、貧しい日本に逆戻りしているのかもしれない。
でも、変わろうとしている限り。
光に向かって一歩でも進もうとしている限り、希望はあるのだ。
『明るく仲良く希望に満ち溢れた高度経済成長期の憧憬』は、蓋を開けてみれば、そんなにいいものではなかったかもしれない。
でも、『明るく仲良く希望に満ち溢れた未来』を描くことはできるのだ。
私たちが変わろうとしている限り。
そういう感想を抱いた、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』。
大変素晴らしい映画でした。
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