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クリエイターは“リア充”でなければならない

ちょっと、いやかなり間が空いてしまいました。この間僕は「朗読ライブ」というものに出演していました。知り合いの役者が昔やっていた音楽活動を再び始め、その彼が主催したライブイベントの演目のなかに「朗読」があったのです。読んだのは、アメブロで知り合ったライターの橋岡蓮さんの文章。彼女が書いたブログを朗読用に再構成したものです。作者の蓮さんと2人での朗読は、実はもう4回目になりました。

彼女は「破壊から再生へ」「氷の楽園」という2冊の本を書いています。(両方とも電子書籍でAmazonで購入できますが、紙媒体もあります。)この2冊は彼女のこれまでの波乱に満ちた半生を描いたものですが、今回読んだのは、彼女が今年6月に結婚してから書いた文章です。それまでの彼女の文体は、かなり硬質な印象で、強い逆風の中を苦しみながらも進んでいく1人の女性の姿を浮き彫りにするものでした。逞しいといえば逞しく、いじらしいといえばいじらしい。健気といえば健気。世の中や周囲の人間に翻弄されながらも、自分の境遇を恨むでも呪うでもなく、とにかく自分に正直に生きてきた純粋な人。そんな姿が伝わってきました。
しかし、結婚後初となる今回、文章のテイストは明らかに変わっていました。根本にあるものは変化はないのですが、どう伝えたら効果的かというのを、今まで以上に意識するようになったのだと思います。それまでは全ての文章が一人称で、彼女自身が主人公であったものが、彼女を客観的に外から見る第三者が語る部分が登場したのです。これによってだいぶ印象が柔らかくなり、彼女が読者に届けたかったものがより届きやすくなったと感じられました。これは、彼女のこれまでのコアなファン以外の人にも、彼女の言葉が届きやすくなったことを意味します。つまり、共感してくれる人がこれまで以上に増えることが期待されるのです。

彼女は否定はしていますが、これは間違いなく結婚によって彼女がパートナーを得て、自分の家庭を持つことができたことが大きいと僕は思います。先に挙げた2冊の著書を読むと分かりますが、彼女は所謂「暖かい家庭」というものにこれまでまったく縁がありませんでした。しかし、それをずっと求め続けていたのです。「孤独」をテーマにしながらも、その孤独に終止符を打ちたいという気持ちを強く持っていました。それがとうとう実現したのです。彼女は、結婚はゴールではないと言います。ですが、彼女が本当に理想としている状態に向かって、確実に一歩前進した、またはそこに至る重要な足がかりを掴んだことは間違いありません。

そこで僕は問いたい。
「クリエイターは“リア充”ではいけないのか?」と。

「作家は不幸でなければいい作品は書けない」とよく言われたものです。21世紀になってまでこのような考え方を信仰している人はさすがに減ったとは思います。しかし、確かに普通に考えれば、完全に満ち足りてしまうと、書く(表現する)動機や熱が弱まる、または失われてしまう可能性は高くなります。自分の中に何か欠けているものがある、何か埋められない穴がある、何か癒されない傷がある、そういう人の方が、より切実な表現をしそうな感じがします。しかし、実際はそうとばかりはいえません。存命中から有名で、作品も高く評価され、売れてもいた芸術家の作品が全て駄作のわけはありません。太宰治は不幸を絵に描いたようなイメージがあって、ファンにはそれがたまらないのでしょう。波乱に満ちた生涯であったことはその通りですが、結構女性とは付き合いがありましたし、家庭も持ちました。そして最後は愛人と心中です。つまり、結果はどうあれ、女にもてたのですから僕に言わせれば立派なリア充です。肝心の小説だって評価されていました。坂口安吾の太宰評ではありませんが、どこか不幸を「演じていた」感があります。

観光地や繁華街、デートスポット、電車の中等々、至る所でたくさんの幸せそうなカップルを見る度に、僕はこうなってしまったらもうものは書けないかも知れないという思いと、いや、それとこれとは関係がないだろうという思いが交錯します。物書きは夢の中も含めて24時間が仕事中ともいえるものです。最近の若者がよく言うように、恋愛は相手や周囲との関係がいろいろ面倒な上、自分の時間をとられ、お金もかかる、何かと「コスパ」が悪いものです。精神的にも時間的にもできるだけ多くを自分の創作活動に割きたいクリエイターにとって、恋人の存在はお荷物でしかないようにも思われます。
けれど、クリエイターも恋人がいたり、家庭があったり、時には子供がいたりもします。つまり、クリエイターにとって、所謂リア充は悪いことばかりではないということなのです。その分かりやすい例として、橋岡蓮さんのことを最初に書かせていただきました。要は、自分のすぐ近くに、一番深く理解してくれる「一番目の読者」がいるということです。その人が自分の作ったものに対して否定的な感想を述べたとしても、それはその人とその人の作品に対しての真の愛情から出た言葉だと思うのです。そして、常に応援してくれるのです。何故なら、恋人(配偶者・パートナー)は無条件でその人を受け入れ、その魅力を理解し、愛しているのですから。
それに、たとえ恋人同士の関係が面倒だったとしても、そういうことも含めて自分に引き受ける、それに向き合う、自分の一番近くにいる「他者」ときちんと関わるという経験をしているのとしていないのとでは、その人が作り出すものの深みや広がり、奥行きが違ってくるのではないでしょうか。結果、その方が面白くて多くの人が共感できる、多くの人の心の底に届くものが作れるのではないかと思うのです。
常に順風満帆、波風が立たずに穏やかで幸せな恋人同士や夫婦はほぼありません。しかし、その波乱の中に身を置いてこそ、出てくる表現があります。“リア充”とは、リアル=現実の生活が充実していることですが、「充実」の中身にはそういうことも含まれるのです。どんなに自分の自由になる時間やお金が多かったとしても、希薄な人間関係、真の愛情に包まれていない状態からは、空虚なものか自己顕示のためのものしか生まれてこないと思ってしまうのは僕だけでしょうか。

と考えると、まるで寅さんのように、根無し草で精神の定住場所も一番近くで見守ってくれ、支えてくれるただ1人の理解者=僕と僕の作品を真に愛してくれる人を持たない僕は、自分のやりたいことをやるための制約が少ない替わりに、何か大切なものが欠けたものしか作れないのではないでしょうか。それは、多くの人の心の奥底に届き、魂を揺さぶるものではない、極めて浅薄な、頭でっかちなものになってしまっているのではないでしょうか。
自分のすぐ近くにいて、一番深く僕と僕の作品を理解してくれる「一番目の読者」がいないからです。それを言い訳にしてはいけないのは分かっていますが、やはり一番の味方がいるのといないのとでは絶対に違います。寄り添ったり、すれ違ったり、離れたり、また結ばれたり…。山あり谷ありの2人の関係を経験したからこその真実味と切れ味。
僕にはないものです。

故に、僕は「クリエイターは“リア充”でなければならない」という結論に至りました。
贅沢は言いません。恋人でなくても、配偶者でなくても、愛人だろうと、男娼だろうと、一夜限りだろうと、僕のリアルを充実させてくれる人を、心から求めます。

寅さんは1つの「理想像」であり、お伽噺だから成立するのです。
みんな1人で生きていく惨めさを知っているからこそ、その裏返しとしての寅さんを求めていたのです。

ただ、蓮さんが“リア充”なのは、単に結婚によって「一番目の読者」を獲得したからというだけではありません。彼女はなお、目指すべき場所を持っていて、そこに向かうための道を模索しているのです。一番目の読者に、そしてそれに続く読者達に常に新しいものを届けようとするその姿勢を持ち続けていること。それこそが本当の“リア充”であるといえましょう。
ただ、それをたった1人でするのと、すぐそばで見守ってくれたり声援を送ってくれたりする人がいるかいないか。その違いも案外大きいんだよな、とあらためて感じさせられる今日この頃です。

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