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なんか、描きたい

いつから、楽しく描けなくなったのだろう。

昔は文章を書くより、絵を描くほうが好きだった。

小学校の休み時間にはらくがき帳を広げ、家に帰ってからも大好きだったゲーム「ファイナルファンタジータクティクス」の絵を飽きもせず描いた。

中学生になると「同人活動」に目覚め、ペン入れをして模様のついたスクリーントーンまで貼った漫画を描き、同人誌を出した。

イラストを描くのが好きな人同士が作品を送り、会報にして載せてもらう「会員制サークル」にも、20代の終わりまで入っていた。

ゲームのグラフィックデザイナーを目指して専門学校に入り、講師の先生から「漫画家は目指さないの?」と言われることもあった。

結局一般企業に就職し、社会人になってからも絵を描き続けた。
その頃から並行して本格的に小説に力を入れるようになり、絵を描く頻度は減っていったけれど、まだ楽しく描けていたはずだ。

結婚、出産を経て、息子のためにアンパンマンやマリオのキャラを描くようになった。
北欧イラストの本を買い、真似して描いていた時期もある。

その頃からだろうか。
自分の絵柄は今時じゃない、と漫画絵を描かなくなった。
小説に傾倒したものの、そちらもストーリーが自分の好きなパターンしか作れず、書かなくなっている。

妹が現役の漫画描き(プロではない)なため、たまに触発されて描くものの、長続きしなかった。

そんな自分が、「また描こうかな」と思えた本がある。

ノートや手帳に描いた味のあるイラストがSNSで評判となった、イラストレーターのハヤテノコウジさんの本だ。

帯にはこう印刷されてある。

「上手」をやめて、あなたらしく。

一般的な絵やイラストの技法書ではなく、かといって作品ばかりを楽しむイラスト集でもない。

この本は、子どもが抱くような、ただ「描きたい」という純粋な気持ちを応援してくれる。
同時に「絵心がない」とか「上手い人と比べてしまう」といったネガティブな思いにも、自身の体験を元に真摯に応えてくれる。

デジタル技術がめざましい世の中だから、AIイラストでいくらでも上手な絵は「作れる」。

だが、一定年数絵を描いてきた人間は、あくまで自分の手で「描きたい」のだ。

また、本文中にこんな一文もある。

あふれる情報の中での「自分さがし」をやめて、創作活動に没頭している時に感じる「自分なくし」を楽しみましょう。

このところ疲れていたのか、それとも気が散っていたのか、繰り返し気になる情報をネットで調べたり、SNSや定期的に見ているサイトを巡回する日が続いていた。

もっとひとつのことに集中したい。
何かをひたすら書きたい、描きたい。

偶然にも、あるVlogを観てマルマンのクロッキー帳に無性に書きたくなっていた頃だった。

まずは小さなクロッキー帳を買い、改めて「スケッチジャーナル・ビギナーズ」を読んだ。
好きなように、自由に書いてみよう。

しばらく使っていなかったpencoの鉛筆シャーペンで、色々書いてみた。

3ページほど書いて、描いて、何も気にせず楽しく鉛筆を走らせている自分がいた。

仕事ならまだしも、今の世の中は見せるために描いている人が多すぎるのかもしれない。

描いてみたはいいものの、今更漫画絵を描くのはやはり抵抗があった。
今時の絵柄を研究するほどの気力はない。

しかし、ひとつやりたいことがあった。

着彩をせずインクやペン1色で描く、ペン画(ドローイング)だ。

思えば、漫画を描くときもカケアミやナワアミ、点描を描くのが好きだった。
今はあまり見られない技法かもしれない。

大人になってからも、一時期義実家の猫や、壁紙サイトの画像を探して可愛いスイーツを描いていた。
あれをまたやりたくなったのだ。

使いかけのターレンスのノートを取り出し、0.1のミリペンで1枚描く。
息子が帰ってくるまで、1枚だけだ。
2枚以上描こうとすると、多分描きたくなくなる。

我が家で飼っているチワワのゆずを描いてみた。

輪郭を取り、大まかにパーツを描いて、線の密度に差をつけて細部を描き込んでいく。

隣の家の工事音も、息子の帰りも、雑多なことも消え失せた。
ただ紙にペンで線を刻み、描きたいものを描いていくだけの時間、やっと私はひとつのことに集中できた。

いつまで続くかは分からないけれど、大人になってから何にもとらわれず描くのは、子どもの頃より楽しい。


※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。

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おおやまはじめ/手帳と暮らしのライター
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