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「拠り所」「宿り木」「御神木」

「拠り所」「宿り木」「御神木」


最近ふと、この三つのワードが浮かんできたんです。

ことばが先にあって、繋がりについてピンとこなかったのですが、何人の人かにこの三つのワードを投げかけ、三つのピースが一つの風景に見える瞬間がありました。

「拠り所」


私は、自分の鍼灸院をつくるとき、「誰かの拠り所になる場所」を目指しました。

人々が行き交い、出会い、自分の「居場所」になるような…そんな空間をつくりたかったんです。

私、幼少期からあまり人と付き合うことが得意ではなく、友達もつくらず、ひとりでアニメを見たり、漫画を読んだり、ゲームばかりする人間だったんです。

歌うことは好きだったんですが、家でも、家族の誰かがいる場所で歌うことはできないし、絵を描くことが好きだったのですが、誰かに自分の絵を見せることが恥ずかしくて、隠れるようにして絵を描いていた気がします。

何というか、世界にひとりと言うか、自分の悩みを大人に勇気を出して打ち明けても、誰も理解してくれない経験があって「あっ、自分は世界にひとりぼっちなんだ」という気持ちが、深い部分に染みついてしまっていたんです…

誰にも自分の気持ちを相談することもなかったし、大人になっても、誰かに自分の気持ちを伝えることをしてこなかったのかもしれません…

もしも、幼少期の自分に、誰かに自分の気持ちを打ち明けて、「君の気持ちわかるよ」とひと言でも言ってくれる人がいたのなら、どれだけ救われたことか…

過去の自分を救うためなのかも知れませんが、誰もわかってくれないことを、ちゃんと理解できる大人になりたかった…

悩みを気軽に相談できる場をつくりたい。

病のことや、こころのこと…例えば、お子さんの症状でも、お医者さんに行ったり、薬局で薬を買うほどでもないけれど、どうやって対処したらいいのか?を気軽に相談できる場所をつくりたかったんです。

「子どもが風邪を引いたのだけれど、何をしたらいいのか?」

「お腹が痛くなったのだけれど、特に思い当たることもなく、原因がわからないから不安に思っている」

「気分があがらないのだけれど、何が原因かわかりますか?」

などなど…

何か困ったことがあったとき、「とりあえず三上先生に聞いてみよう」と思っていただけるような、そんな場所を目指したんです。

疲れたとき、調子を崩したとき、「三上先生のところに行けばなんとかしてくれるから、とりあえず全力でがんばろう!」と思っていただけるような、こころの片隅に私の鍼灸院の存在が浮かぶような、誰かががんばるための力になりたかったんです。

幼少期の自分が、誰にもたすけを求められなかった経験があったからこそ、私は幼少期の私を癒すためというか、拠り所としての鍼灸院をつくりたいという思いもありました。

きっと、小さなことでも、自分の拠り所がある人って、いざという時に強いんです。

こころを休ませるところがある人は、たとえ傷ついたとしても、折れることはない。

一つではなくとも、いくつか拠り所を持っている人もいるはず。

こころを休ませたい時、自分の拠り所がある人って、どこか強さがあるんです。

コロナ禍で気づいた「自分の居場所」というもの


最近、コロナ禍において、「自分の居場所」を見つけられない人がいることに気づいたんです。

例えば「今まで自分の家が自分の居場所だと思っていたのだけれど、家族が家にいることによって、自分の居場所がないことに気づいた」というようなご相談がありました。

「家にひとりでいるときは、自分の趣味に、没頭できる時間があったのだけれど、誰かがいると、趣味をすることができない」など…

いろいろな話を聞いていく中で、私は「場所」が自分の拠り所にならないことがあって、「時」と「場合」によって、自分の拠り所がなくなってしまうこともあるのだなぁと実感したんです…

私にとって、大きな気づきでした。

解決策というか、問題はどこにあるのか?と考えていく中で、頭に浮かんできたワードが、冒頭にも書いて、この文章のタイトルにもなっている「拠り所」「宿り木」「御神木」という三つのワード。

「拠り所」については説明させていただいたのですが、「宿り木」と「御神木」について、少し詳しく説明させていただきますね。

「宿り木」


みなさん「宿り木」ってご存じですか?

宿り木って、木の枝につく、根を地面に張らない木。

まるまった形をしていることが多く、木に寄生する木というか、大きいものにくっついている、まんまるい木なんです。

自分の居場所を見つけたけれど、地に根を張っていないというか…別に悪い意味で言っているのではないのですが、好きな場所を見つけて、そこにくっついている存在に私には見えたんです。

自分が好きだったからその場所を選んだのか、タンポポの綿毛のように、自分の意思ではなく、風で流されてきたかもしれませんが…

「御神木」


「宿り木」のイメージからさらに連想したのが「御神木」

御神木って、見るからに神聖というか 笑、御神木を目の前にすると御神木であることを納得するというか、「時」と「場合」によらず、しっかりと地に根を張って、そこに象徴として存在できるくらいの力をもっているイメージが私にはあるんです。

船でいうと「いかり」がとっても重いというか、地に根を張っているからこそ安定しているというか、誰が見ても「あぁ、御神木だよね」と思うような、そのくらいの強さで存在できる御神木。

「宿り木」と「御神木」の違い


宿り木と御神木って、地に根を張る強さというか、船の「いかり」の重さが違うように私は思うのです。

そのいかりの重さを決めるのは、きっと「自らの意思」

例えば、「誰かがいると、自分の趣味ができない」と思っている方、もしかすると、深い部分で今いる状況が、「自分が根を深く張りたい場所」ではないのかもしれない…

もちろん、人それぞれ違うかもしれませんが…自分が深く根を張りたい場所が、今の場所ではないのではないのか?と迷っているというか、自分の意思を持って決められていないのかもしれないんです。

人は「目には見えないもの」で相手を判断している


人って、初対面の人でも、ことばは交わさずとも「目には見えないもの」で判断している側面があると思うんです。

遠目で見ても、「あっ、この人はしっかりと根を張っている人だな!」とか、目で見えているものではなく、内側に宿っている情報というか、言わずともわかるオーラというか…はっきり見ることはできないけれど、確かにあるもので、人を判断していることがあると思うんです。

人そのものの存在が、ことばではない、何かを物語っているというか…

なんとなく、ニュアンスわかってくれますよね?

目には見えなくても「この人に近づいちゃいけない」という危険信号を察知したり、本能に近い部分で、相手をわかっていることがあると思うのです。

自分ではうまくやっているつもりでいても、誤魔化すことのできない情報がダダ漏れていたり…

ちゃんと根を張っている人、宿り木のような人、御神木のような人…ことばではないところで、ちゃんとわかっているような気がするんです。

自分を知ろうとするとき、基準をつくって何かと比べたり、ことばにならないことをことばで表現してみたり、識別的な感覚を使って、今の自分の状況を表現すると、自分がなにものになりたいのか、どの方向に進みたいのかわかることがありますよ。

「拠り所」「宿り木」「御神木」、この三つのワードから受け取った私の情報は、「自分の意思」だったり「いかりの重さ」、「目には見えないものを人は見ている」ということでした。

この文章が、誰かが進むべき方向を知るための羅針盤になってくれたら嬉しいです。

写真は、東京都府中市にある「大國魂神社」の御神木、大銀杏さんでした。

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