『ハリー・ポッター』と『葬送のフリーレン』と『女神様の魔法』
そうだ、思い出した。
私が中学生の頃の話。
あれは、飯能にある、駿河台大学で、英検の二次試験があったとき、父に、車で、駿河台大学まで送ってもらったんです。
帰りに、本屋さんを探して、飯能市内の本屋さんに寄り、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を買ってもらいました。
…突然こんな話になりましたが、今、私は年末年始に、世間から距離をおいて、自分の人生を振り返ったり、今後、自分が何をしていきたいのかを考える時間を送っています。
『ハリーポッターとアズカバンの囚人』は、ハリー・ポッターシリーズで、私が一番好きな作品。
買ってもらい、その日の内に読み終え、興奮して、父と母に、いかに素晴らしい作品だったのかを話したんです。
あまりにも素晴らしかったから、同じ感動を共有したかった。
母を説得して、『ハリー・ポッターと賢者の石』『ハリー・ポッターと秘密の部屋』を読んでもらったのですが、母、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』に辿り着けず…無念…
人は、人それぞれの価値観を持っていて、いくら自分が好きなものがあるといっても、同じ価値観を共有することができないんだと悟った瞬間でした。
『ハリー・ポッター』は、私の人生にとって、大切な作品。
原作は最後まで読んでいたのですが、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』以降の映画は観ることができておらず、今回の年末年始で、『ハリー・ポッターと死の秘宝』まで観終えると決めていたんです。
私、ハリー・ポッターの結末を覚えていなかったんです…あんなに読んだのに、まるで、「オブリビエイト」(物語に出てくる、忘却呪文)をかけられたかのように、覚えていなかった…
今回、映画を最後まで観終えて、こんな結末だったのか?と、すごく新鮮に思ったくらい。
見終えて、私の中の、止まっていた時間が、動き始めた気がします。
やっと、終わりにできた感覚が、私の中にあります。
先日、おおくにたま鍼灸院で新年会をしたとき『葬送のフリーレン』の話になったんです。
私、『葬送のフリーレン』の世界観が好きすぎて、どっぷり浸りすぎ、自分の施術に大きな大きな影響があるくらいです…
『葬送のフリーレン』の世界観に「女神様の魔法」というものがでてくるんです。
女神様の魔法は、1500年ほど前からあって、伝わってはいるが、原理はまったくわかっておらず、魔法使いが使う魔法とは、全く別の理で使われる魔法とのこと(作者のこの設定が、本当に秀逸!!ちなみに、物語に出てくる言葉をしゃべる魔物である「魔族」が使う魔法も、原理は不明とのこと)。
「原理はわかっていないが使える」って、私たちが扱う「癒し」を扱う世界観と、全く一緒なのではないか?と思うのです。
原理がわからないからこそ、ずっと形を変えることなく、そのままの形で現代に残っているものがあって、「鍼灸」というものを考えてみても、「ツボ」や「経絡」という、生命エネルギーである「気」を扱う方法論はあっても、大げさな言い方かも知れないのですが、実際のところ、なんで効いているのか、誰もわかっていないんじゃないかと思うのです。
原理なんて、わかっていなくても効く。
女神様の魔法と、対して違いは無い。
「ツボ」の効能一つとっても、考えただけでは、答えなんて出ないんです。手の甲のツボで、腰痛が治ったりするのですから。
もっともらしい説明をつけている人はいても、きっと、新しい原理を立てたり、まったく新しい方法論を考えることができないのです。
できることは、アレンジくらい。
「遺伝子組み換え」はできても、人が、一から新しい生物を作ることができないのと同じように…
鍼灸もしかり、私が扱う、野口整体がいうところの、「愉気」も、手から息を吐くように、相手に気を伝えると、病に倒れている人が、なぜかよくなる。
ガンが消えたこともあるくらい。
方法論はわかっていても、原理原則はわかっていない。
そんなものが、いまだ、この世にはあるんです。
話は脱線しましたが…『葬送のフリーレン』アニメを見た人、原作を読んだ人がいたのですが、みんな、それぞれに感想が違うのですよね。
まぁ、当然の話。
アニメの1話を観て(金曜ロードSHOWの2時間枠だったから、正確には1話じゃないかもしれない)、もう続きを見ないと決めた人や、この作品を、多くの人が見ていると思うと、日本は明るい、と考えている人から、様々な感想を聞いたんです。
世界はきっと、統一なんてできない。
『STAR WARS』の世界観では、帝国は、恐怖による支配によって、宇宙を統一しようとしました。
『バットマン』の世界観も、ダークヒーローながら、世直しという形で犯罪をなくしていくという観点では、同じことかもしれない。
一つの事柄で、たくさんの感想が生まれるように、正解なんて十人十色。だからこそ、正解なんて存在しない。
あるのは好きとか、嫌いとか、個人的な感情、体験から生まれるもの。
よくも、わるくも、世界は大きく動いています。
戦争を起こしている人たちは、それぞれの正義に従って、今も戦っている。
天災も起こる。
情報になれてくると、死者数とか、行方不明の人が何人いるのか?など、あまり、実感のわかない数字が並んでいることが多い気がします。
一人一人に人生があって、みんながみんな、それぞれの想いを持って生きているのがこの世界。
何がいいとか、わるいとか、一言で言い切れるはずなんてない…
私が、いくら『ハリー・ポッター』が好きでも、ハリー・ポッターを嫌いという人は必ずいるのです。
たくさんの人がいて、それぞれに違う想い、大切にしていることが違って、生い立ちも違えば、目標とすることも違う。
原理原則がわからなくても効果のある方法論はあって、私たちは多くのことを知っているようで、まだ、世界のことを、何も知らないのと同じくらいの知識しか、持ち合わせていないのではないでしょうか?
案外、いろいろなことがわかった千年後の人たちは、病を治すのに、ただただ「祈る」ことをしているかもしれない。祈りが、一番の薬なのかもしれない。
私にできることは、祈ることくらいしかないのですが、この世界のために、私は祈ることができる。
地震が起こったとき、「地震を鎮める祝詞」というものがタイムラインに流れてきて、みんなで、この祝詞を唱えましょうと言っている人がいたんです。
内容なんてわからなくても、効果に対する科学的な根拠とか、エビデンスなんてなくても、私はただただ、その祝詞を唱えました。
わからないことは、わからないままでいいのだと、最近、教えてもらっている気がしています。