「小太りが太る時」
店内では会話をする者と、しない者で分けると後者の方が断然多く、少数に部類された者の声はしない者の耳に筒抜けであった。
「彼女、俺以外にも付き合ってる奴がいると思うんだ」そうテンは言った。テンは先月健康診断で生活習慣病と告げられたばかりだった。
「確実な証拠はないよ。ただそう思う理由はある。多分変だって言うだろうけど、こうだと辻褄が合うんだよ」真剣な声と冗談とは思えない顔で話しを続ける。
「驚くなよ彼女は、霊に、取り憑かれている。それも顔がクソほどにいいバンドマンの霊が。そのせいで浮気というのが悪いこととも思ってない。プリンも好きだけど杏仁豆腐も食べたいし、えいっ買ってしまえってくらい気楽に好きなものを好きなだけ受け入れてしまうんだ。だからオレとも別れられない。それしか考えられないんだよ」ちゃんと変な事を聞かされていたのは大學4年になるウメだった。テンとは7つ年下で、就職活動はせず、その代わりに週7.5日でバイトを入れていた。大学になぜ入ったのか「学ぶより働け」をモットーに今日も掛け持ちでバイトを終え、約15時間の勤務後に都合よく起きていたテンを誘い、早朝5時の牛丼店に2人はカウンターで隣同士同じ大盛り汁だく牛丼を仲良く目の前に置いていた。そんなウメは紛い物を売りつけてくるペテン師でも見るような目をして言った。
「浮気って事?それが霊のせい?なんか変な動画でも見たんじゃないの?」
「…俺幽霊とか無理だから。でもオレ見たんだ、あいつが夜な夜なノートを広げて何か書いてるのを。5年一緒にいて化粧以外でペンなんて握っている所を見たことないのにだよ、しかもオレが寢ている時にコソコソと。もうゾッとしたよ」
大盛り汁だく牛丼をシャカシャカ掻き混ぜながら隣に座るウメに、その時のことを思い出してなのか、混ぜることに集中してなのか難しい表情で言った。
「でノートに彼女は何て書いてたのよ。見たんでしょ?」ウメは置かれた紅生姜を一個一個縦にさき、表面が紅色に染まるまで敷き詰め、そしてざくざくとスプーンでかき混ぜる。
「当然。ノートは見たよ、分かっていたことだけど詩がビッシリだった。バンドマンだからね」
「顔のいい?」ウメからのからかいにテンは反応しない。その様子を見てウメは初めて本気なんだと理解した。
「あれは明らかにオレじゃない誰かに向けた恋文だよ。顔から火が出るくらいの甘いやつ」二口目を頬張りながら何かを思い出すように天を見上げる。
「なあ、もうオレのこと好きじゃないのかな。もう別れたいのかな」牛丼を頬張っているせいだろうか、少し泣きそうな声に聞こえる。ウメは励ますように思いつく限りのポジティブな事を言ってみた。
「なんかもっと確実な証拠みたいなのは無いわけ?それって普通にあんたの被害妄想の可能性あるんじゃん。あんたのための恋文かもしれないよ。もしかしたら急に作詞家になるって決めたのかも。夢はいつだって見れるんだから。考えればいろんな可能性あるじゃん」語尾は意識して少し高くした。わざとらしく聞こえているかもしれないけど確実な証拠がないものを信じるのは違うと思うから。
「オレは別に傷ついてるわけでもないんだよ。だから怖いのかもしれないんだけど。理由があれば別にいいって思っちゃってるし」
「何年だっけ?」
「5年」
「長いね5年」
「うん、長いよ5年」
「まあ、霊のせいにもしたくなるよね」
「霊のせいじゃないのかな」
「さあ、どうだろ」
「今でも好き?」
「…好きなんだよ」
「落ちてるね」
「うん、完全に」
丼ぶりの中が空になる。なんだか気持ちの収めようが分からないテンはヤケクソにタッチパネルを取り同じ牛丼を注文する。
「あ、私のも頼んで、同じやつでいいから」ウメは一杯目の残りをかき込みながら言った。
右下のプラスマークを押す。注文前に化粧室に入った客より早く届けられた牛丼を今度は2人無言で食べ続けた。
外の空気は冷たい。満腹のお腹は足取りをふらつかせ眠気を誘った。
「ウメ、また今度」
「うん、また。あ、次やけ食いしたくなったら焼肉行こう」
「肉は楽しく食いてえよ」
「楽しく聞いてやるから」
「なんだよそれ。あ、でもオレ医者に生活習慣病って言われたんだった」
「もう遅い」
「はあ、何もかもが遅いなオレは」