映画レビュー(42)「イニシェリン島の精霊」
2022年のアイルランド・イギリス・アメリカ映画。コリン・ファレルが出てるだけで曲者な作品である。
舞台は1923年のアイルランドの小さな島。海の向こうではアイルランド内戦(22~23年)の真っ最中である。
友人の奇妙な申し出
物語は、主人公パードリックが長年友情を育んできたと思っていた友人コルムから「もう、俺に関わるな」という突然の絶縁を告げられる「?」から始まる。
なんとか交友を取り戻そうとするが、「これ以上関わると、俺は自分の指を落とす」と言って、コルムは実際に指を切断してしまう。
異様なのは誰だ
物語が進むにつれ、当初際立っていたコルムの異様さの後から、パードリックの異様さも浮かび出てくる。それは彼の数々の奇妙な「こだわり」である。そのため島にはコルム以外の友人がいなかったこと、唯一の家族である妹シボーンが「もう我慢できない」といって出て行く顛末など。また、コルムの気持ちの原因を知ろうという努力や想像力もない。
ここで私は、これは友情が壊れる物語ではなく、我慢の限界を超えてしまった人間同士のコミュニケーションの破綻を描いているのだと気づいた。片手の指を全部落としても気づいてくれないパードリックに怒ったコルムは、パードリックの偏愛するロバを殺してしまう。
ついにパードリックは報復にコルムの家を焼き、二人の争いは決定的に修復不能になる。こうしてエスカレートする仲違いを、島にいる不思議な老婆はうれしそうに笑い叫ぶ。
精霊とは
表題の精霊はバンシーと記されている。これはアイルランドやスコットランドの妖精で、人の死を叫び声で予告するという。この老婆がバンシーなのであろう。
このコミュニケーションの齟齬が拡大して暴力に至るという物語。まさに当時のアイルランド内戦の暗喩である。修復不能の争いは、アイルランドの独立後も長く続くことになった。精霊が告げているのは、この戦争から始まったアイルランド戦争の「死」の累積であろう。
人には大なり小なり他人には伝わらない「こだわり」がある
自閉スペクトラム症という発達障害の中には、「他人の感情に気づけない」「人には理解できない強いこだわり」などがある。成長するにつれ、それに折り合いを付けて大人になっていくのだが、これにも濃い薄いがあり、特に顕著なモノが症とされるようだ。
私は普通だからと思っている人の気持ちの少し先の延長上にあるのだ。
パードリックには、これを思わせるものがある。
お互いの「こだわり」の摩擦で争いが起きる
映画は二人の物語だが、実際の世界では同様の「こだわりの摩擦」が原因で起きている戦争が少なくない。特に宗教的なものが目立つ。
この映画は、そんな争いの真相をえぐる寓話なのである。ゴールデングローブなどの賞を取りまくった訳がここにある。そして、コリン・ファレルという役者の作品を見る慧眼にもうならされた。
残念な評論を散見
劇場で鑑賞した後、この映画に関して考察をしていたのだが、その際に残念な評論に出会った。
その評者は、この作品内のパードリックとコルムの関係を同性愛的に捉え、それに対する周囲の無理解が産んだ悲劇である、と得々と解いていた。
なぜ、そのような浅い解釈で「思考停止」してしまうのだろうか。アイルランド内戦とかIRAのテロなどの事件に接していれば、そんな浅いレベルでは終われないはずなのに。
キネマ旬報の単なる読者レビューならいざ知らず、プロの映画評論家が新聞に載せるレビューがそれでは残念過ぎる。
(追記 2023/12/20)
昨今の、特に映画の評論に残念なモノが多いのはなぜだろうか。表面だけを追う、流し観のような鑑賞が原因だろうか。それでも別にかまわないが、そんな観方をする素人である観客に作品の深さを知らせること、気づかせることこそ評論家の仕事ではないだろうか。
なんて少し愚痴ってしまいました。
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