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:人はどう死ぬのか(久坂部 羊)

早めの終活をしている身としては、御終いの瞬間をどう迎えるかも考えておく必要がある。

今の夫と再婚してから、年齢的にも"死"との距離感を意識するようになった。夫が先に死んで独りになったら・・・、逆に夫を遺して私が先に逝ったら・・・。

イメージがリアルになり過ぎて、もの凄く寂しい気分になったりもする。

だが、私にとっては受け入れられることであるのは間違いない。(ま、そうするしかないし)

最近この本を読んで、より一層、受け入れ態勢を整えておかなければなと、いつか訪れるその日に向けて新たな心持ちとなった。

はじめに
第一章 死の実際を見る、心にゆとりを持って
第二章 さまざまな死のパターン
第三章 海外の「死」見聞録
第四章 死の恐怖とは何か
第五章 死に目に会うことの意味
第六章 不愉快な事実は伝えないメディア
第七章 がんに関する世間の誤解
第八章 安楽死と尊厳死の是々非々
第九章 上手な最期を迎えるには

人はどう死ぬのか (講談社現代新書 2655)

この中には総じて、現代の(日本)社会に浸透している"生の無条件肯定と、死の絶対否定"へのアンチテーゼが書かれている。

私は生きるも死ぬも同じく一つの現象だと捉えているので、極端に死を恐れることはなく、すんなり読めたが、確かに世の中の風潮としては死への恐怖や克服だけがクローズアップされている。

生まれてくること、生きることだけが素晴らしくて、死はなるべく遠ざけたいなんて、人間は不思議な生き物だな。もちろん世界各国により死生観は異なっていて、この本によると日本は死にゆく間際の不都合なことは伏せられているそうだ。

どうして綺麗なところばかり見たがるのだろう。
その裏で憎悪のようなものが渦巻いている社会なのに。

と、そんなことは置いておいて、
本を読み始めて私は祖父のことを思い出した。

95歳の大往生。

自宅で体調を崩し、恐らく倒れたのだろう、親戚は病院へ運んだ。

これは想像する中で当たり前の対応のはず。
私だってそうしたと思うし、親から一報を受けたときも何も疑わず経過を聞いていた。

緊急で処置がなされたが、結局1週間ほどで亡くなった。

あとから母が言うには、目が覚めた祖父が
「何したんだ」(なんてことしたんだ)
と言ったそうな。

本の内容とリンクする。
若い人ならともかく、もうお迎えがすぐそこまで来ているお年寄りに対して"虐待ともいえる"蘇生処置を施すとは、なんということか。
と、そういう話である。

死に際から復活した、たかだか1週間は「家族のため」でしかないのだ。

ただ、亡くなる直前にお別れが言えた親戚にとっては、救いの時間となっただろう。

上に「すんなり読めた」と書いたが、医療現場で起こりうる事例については「おうっ」と思うこともあった。心臓マッサージで肋骨が折れるとか。

もし自分が、随分年を重ねて、ギリギリ死なせてもらえず骨折の痛みに耐えなければならない状態に陥ったらと考えると、違う恐怖が生まれる。

自分らしく生きよう、と耳にタコができるほど聞いてきたが、自分らしく逝こうという話もしておくべきだ。厚生労働省はACP(アドバンス・ケア・プランニング)を『人生会議』と称して普及している。

本人が考えておかないことには、周りの家族は決められない、アタフタして蘇生一択だ。もちろん、それが悪いわけではないし、家族の気持ちも分かる。

思いやりの方向性が違う、ってことだと思う。

私ならどうしたいか。
存在し得る可能性の中からどれを選んでどれを捨てるか、考えて夫と共有しておこう。

両親にもどういう最期を望むのか聞いておかねば。
そういうのは聞きづらかったり、冷たい娘だねと感じる方もいらっしゃるんじゃないかな。でも、大切な人の望みをかなえてあげるという意味でも確認は大切じゃないかな。

急に言い出すと驚かれそうだけどw


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