(短編ふう)三人のキャサリン
東京都美術館で、肖像画《キャサリン・チェイス・プラット》を観た。
101.9×76.7cm。油彩・カンヴァス。
1890年、ジョン・シンガー・サージェント作。ウスター美術館所蔵。
未完成だというが、自然を律する数式のような美しさである。
キャサリン・チェイス・プラットは、椅子の背に肘を掛け、半身をやや傾けてあずけている。鼻筋の通った横顔をみせて、凛と前方を見ている。身に着けたドレスに、あたりに差す光が運んだ多様な色彩が淡く映えている。深淵な背景に紫陽花が咲きほこり、彼女の強い意志に共鳴しているように見える。
彼女はどういう気持ちでここに座っていたのだろう?
なぜ、未完成のままで、よし、としたのだろうか?
素人のネット頼りでは、キャサリン・チェイス・プラット、という女性がどんな人物だったのか、確かには、たどり着けなかった。
想像のまま、とするのは、彼女に失礼だろうか?
いくつかの断片的な情報からの想像が止められず、ここに吐き出す。
(一人目のキャサリン)
キャサリンは、ウスター美術館の館長代理の経歴もあるフレデリック・プラットの娘だった。
肖像画は、父のフレデリックが依頼したものの、途中、気に入らず、依頼を取り下げたため、未完となった。
当時、サージェントは人気の肖像画家である。
キャサリンは裕福な父の愛娘だったようだ。
通説のようなのだが、あまり腑に落ちない。
美術館の館長代理が、この絵を受け入れないとは、当時との価値観の違いがそれほど大きいということだろうか?
絵は、震えるほどに美しい。
あるいは、絵のキャサリンがあまりに本人らしくないと感じたのだろうか?
だとすれば、キャサリンは、もっと可憐な雰囲気をもった女性だったのかもしれない。
絵は未完にもかかわらず、ウスター美術館の所蔵となっているわけだから、絵の価値自体は彼も認めていたとも言えそうだ。
キャサリンは父の勧めで肖像画のモデルとなり、しん、と腰かけて、画家が得意の画風に描くままにまかせる。静かに受動的に時間を過ごす女性だったのだろうか?
父親がアトリエに入ってきて、画家の後ろからキャンバスを見下ろし、お前らしくないからここでやめよう、と言う。
想像する〈一人目のキャサリン〉は、すんとおっとり立ち上がって二人に近づき、同じように絵を見下ろす。
途中、何度も見ている絵だ。
聡明そうな目元。
腰かけているのに颯爽として見える姿。
もし、このようであれたら、と彼女は思う。
画家は依頼主の言葉に筆をとめていたが、強い目で彼女を見上げる。
いいえ、これは確かにあなたです、と言っているようだ。
彼女は、その瞬間、少し衝撃を受けた。
自分の中を新しい風が吹く。
それだけで十分。
「背景が紫陽花なのも少し気にかかる」
と言う父に、そうしましょう、絵はここまでにしましょう、とほほ笑む。
肖像画に意味はない。
意味があるのは、わたし自身。
画家は、わかりました、と静かに筆をおく。
彼女がそう感じてくれたのなら、それで作品は完成なのだ。
(二人目のキャサリン)
背景の紫陽花が気に入らなかった、という記事を見かけたが、確かではない。
紫陽花の花言葉を引いてみると、色によって良い意味も良いとは言えない意味もあるようだ。
〈あなたは美しいが、移り気で高慢だ〉という恋した者の恨みのようなニュアンスがまとわる。
官能的でスキャンダラスと非難され、サージェントがフランスを離れるきっかけとなった〈マダムXの肖像〉に似た描写の横顔を、父親は嫌ったのかもしれない。
〈マダムX〉のモデルであるゴートロー夫人は米国の生まれで、3歳の時、父親が南北戦争で戦死、8歳の時に母親とともにフランスに移住。
美しく成長して銀行家ゴートローと結婚した。
抜きんでた美貌と社会活動に積極的に参加する性格で、社交界では醜聞もされた。米国出身ということで田舎の成り上がり者扱いされた時代だった。
幾人もの画家が、描かせてほしいと申し込む中、彼女がサージェントを選んだのは、同じ米国人の血をひく彼の才能を、閉鎖的なフランス社会に認めさせたかったからだ。
創作はブルターニュにある彼女の別宅でされたが、なかなか進まなかった。
彼女が肖像画の為に、じっと座っているタイプの女性ではなかったからだ。
彼女は活動的だった。
しかし、ふたりの計画は失敗する。
モデル名は匿名でサロンに出品されたものの、すぐに彼女と暴露され、絵は不道徳なほどに官能的、と酷評されてしまった。
ふたりとも打ちのめされ、そのまま疎遠になってしまう。
〈マダムXの肖像〉は、1883~1884年にかけての制作。
〈キャサリン・チェイス・プラット〉は、1890年の作である。
父親が、描きかけの肖像画をみて、娘と〈マダムX〉が重ね合わされるのを嫌ったのだとしたら、〈二人目のキャサリン〉は、〈マダムX〉を彷彿とさせる女性であったのだろうか?
「お父さま。心配はいりませんよ。」
と、〈二人目のキャサリン〉はキャンバスを覗き、中止を提案する父に言う。
「しかし、ね。」
と、父は逡巡する。
「わたしには、マダムのような艶めかしさはありません。」
娘は、首まで隠れたドレスの襟を触ってみせる。
「でも。ここまでにしておきましょう。ごめんなさい。実は、肖像画の為に座り続けるのはあまり気が乗っていなかったんです。」
後ろの半分は、当惑気味に彼女を見上げている画家に言った。
ブルターニュの別荘で描かれた〈マダムXの肖像〉には習作版がある。
その中の一つは〈キャサリン・チェイス・プラット〉に似た姿勢で椅子に腰かけている。
「それにこれは、わたしではなく、あなたの求めている幻影ではないですか?」
父がアトリエを出て行った後、〈二人目のキャサリン〉は画家に言った。
少し考えた後、画家は答えた。
「…いいえ。そんなことはありません。この気品はあなたのものです。」
疎遠になってしまった記憶の中のマダムと比べているようでもあった。
(三人目のキャサリン)
三人目のキャサリンは、1875年12月29日 マサチューセッツ州ウスター生まれ。
絵の中の毅然とした気品から、もっと大人な女性を想像していたが、サージェントが肖像画を描いていた当時、彼女は15歳だったことになる。
そして、調べていくとサージェントが描いたもう一枚のキャサリンに遭遇した。
同じ頃に描かれたものらしい。
やはり白いドレスで椅子に座っている。
正面を向き、左手を腰に当てて一見、堂々としているが、右手指で首元のネックレスを弄っている。少し左に視線を逸らして、何かを確かめているように見える。
確かめながら、畏怖れ、迷いながらも受け止めようとしている信仰心のようなものが表現されているのかもしれない。
背景は樹の陰だが、遠くの空に陽が残って見え、啓示を暗示している。
〈未完成版〉の後、依頼主の意向に沿って改めて描かれたものなのかもしれない。
あるいは、ふたつは同時並行で制作され、途中で、一方の採用が決まり、もう一方は、そのまま未完となったのかもしれない。
プロバンスでの〈マダムXの肖像〉ではいくつもの習作が描かれた。
背が高く、15歳にしては落ち着いている〈三人目のキャサリン〉は、椅子から立ち上がって画家の後ろへ回った。
画家は、ふたつのキャンバスを並べて、彼女を写していた。
「サージェント先生。先生は、父はどちらを選ぶと思いますか?」
彼女は尋ねたが、父は、横顔の方は選ばないだろうと予感していた。
父は信仰心の篤い人物である。謙虚な人柄で、華やかなことは好まない。
サージェント先生のような画風の画家に依頼したことさえ驚きだった。
「さあ、どちらでしょう。」
画家は少し背を反らし、ふたつを見比べる様子をした。
画家が描き続けたいのは、横顔の方だろう、とも彼女は感じていた。
彼女自身も、横顔のそれに魅かれている。
特に描きかけの紫陽花たちが、座っている自分を踊るように囲む背景が、どこか祝福されているようでうれしい。
「どちらかは、ここで止めてしまうんですよね?」
それでも父はもう一方を選ぶだろう。
「…そうですね。しかし、お嬢さま。ひとのどんな一生も価値があり、どんなに短くても未完と軽んじられる生涯がないように、どんな絵も、未完、と惜しまれるものではありません。生と死は連続しています。完結することはありません。絵も画家が筆を置いてもおわりません。観る者が先を紡ぎます。この筆をこのまま止めても、」
と画家は、おそらく今日で作業を終えるだろう一枚を見つめたまま言った。
「それは、今時点で完成していると同時にいつまでも未完なのです。」
そして付け加える。
「ひとと同じですよ。」
「先生…。わたしには難し過ぎます。」
キャサリンの声は幼い。
画家の目がほほ笑む。
「ぼくは、画家ですから、わかりやすく言えませんね。」
「では、どうでしょう? この絵を、完成しているように美しい、と感じていただけませんか?」
辿り着いたブログによれば、〈三人目のキャサリン〉の人生は敬虔である。
肖像画から6年後の96年に医師アルフレッド・シャプリーと結婚した。
3人の男児を設けるが次男は幼少にて亡くしている。
医師の夫とともに篤志なキリスト教会員として長く活動した。
アジア内陸での活動中に、夫とふたりの息子を天然痘で失う痛みを負った。
晩年、イリノイ州ウィートン大学の女子学部長を務める。
1942年、67歳で没した。
未完の絵が制作されたのは1890年。
絵を所蔵しているウスター美術館は1896年に基金が設立され、開館したのは98年である。
それまでの間、絵はキャサリン本人のもとにあったと思いたい。
もう一つの絵は、美術館にはなく、ある画廊に収まっているようである。
いずれも確かにはわからなかった。
―了―
アルファベットでKatharine Chase Prattを検索すると、日本語ではひっかからない記事に遭遇できました。Google Chromeを使って日本語変換しつつ解読しました。不確かな情報ばかりですので、あくまでも全て空想とご承知ください。