![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/174394627/rectangle_large_type_2_8388793a0bde5c3920528dd61ab98930.jpeg?width=1200)
連載小説『私の 母の 物語』十九 (79)
十九
二月の初旬の日曜日、和歌山市内のホテルで西浦のおじさん、おばさんと父、母、わたしの五人で食事をした。
この家には高校一年の冬から卒業までの二年余りを置いてもらった。親戚でもあるし、塾を始める前に勤めていた専門学校はこの家の近くにあったので、和歌山に帰ってきてから頻繁に顔を出せばよかったのだが、あることがきっかけで足が遠のいていた。
それは数年前、この家の長男が交通事故で亡くなったことである。この長男は三人兄弟の末っ子であった。長女はわたしと同い年、次女は二つ下だったが、長男は次女とは七つほど歳が離れており、わたしが下宿させてもらっていた頃はまだ小学生だった。
この長男が大学を卒業して地元の金融機関に就職し、婚約して結婚も間近というときに交通事故に遭って亡くなった。
長男は結婚しても実家で両親と同居するつもりであったそうだ。長女と次女はすでに嫁いでいて、二人の娘が嫁いで少しさびしくなった家がまた新しい家族を迎えて賑やかになるはずが、逆に一人いた息子が亡くなって夫婦二人の暮らしになってしまった。訪ねていけば少しは慰めになるかと考えてみたこともある。が、それよりもわたしが訪ねることで余計なことを思い出させてしまうのではないかということが心配だった。それ以来わたしの足は西浦の家から遠のいていた。
五人で食事をして、わたしが西浦家にお世話になっていた頃の話、わたしと同い年の長女の娘が大学生になった話、わが家の近況などを語り合った。亡くなった長男の話も淡々と語られたので、わたしとしては少しこころが軽くなったような気がした。
父やわたしの自己満足であったかもしれないが、やはりこうして会えて、お世話になった礼が云えたことはよかった。
わたしにはそれを言いそびれた人がいる。
中学一年生のときに置いてもらった長谷川のおばさんは年賀状のやりとりが途切れて数年後、連絡をとってみると介護施設に入っていた。会いに行きたいと手紙を書くと、妹さんから返事がきた。もうわたしのことは分からなくなってしまっているという。年賀状がこなくなったときにすぐに連絡をとっておくべきであった。わたしのことが分からなくなったというのは、方便なのかもしれないとも思う。本当は長谷川のおばさんはわたしのことを怒っているのだ。わたしはそう思うことにした。
西浦のおじさん・おばさんに会った頃から、母が指先のしびれを訴えはじめた。足元もおぼつかなくなり、とぼとぼとした歩き方になった。先日の転倒の後遺症が出てきたようだった。
病院でレントゲンを撮ると、頸部脊椎間狭窄症といって、首の部分の神経が圧迫されているのが原因だと分かった。徐々に進行する病気なので、転倒したことが直接の原因とはいえないが、症状の出る引き金になった可能性はあるとのことだ。(続く)