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連載小説『私の 母の 物語』一(10)

 母の話によると、寺には自転車など当時としては贅沢なものがあったが、それらはみな祖母の実家から送ってきたものであったという。
 祖母には二人の兄がいたが、二人とも若くして亡くなってしまった。三代続いた家は途絶え、祖母が遺産の大部分を引き継ぐことになった。といっても莫大な額があったわけでもなく、母たちの成長にともなって金目の物はほとんどなくなり、末の子どもの結婚資金のために最後に遺されていた土地を売って、それらは底をついた。
 ところで、母たち四人の子どもは、みな女であった。誰も寺を継ぐものがない。そこで祖父母は母に婿養子を迎えて寺を継がそうとしたらしかった。母は次女であったが、おっとりした長女の伯母より利発で成績もよかったらしい。祖父母は母を師範学校に進学させ教師にして、そのうえで婿養子を迎えようとした。戦後の農地改革で小作収入を失った田舎寺はますます暮らしが厳しくなっていた。お布施だけでは苦しいが、母を教師にすれば安定した収入が得られるので、なんとか生活できると考えたのだろう。
 母は師範学校を出て、その後和歌山大学の短期大学部を出て、祖父母の思惑どおり教師になった。ただ、父と出会ったことが思惑違いであった。
 父はそのとき代用教員だったそうだ。戦後の新制高校を卒業して農家だった家を手伝っていたが、戦後の教員不足で代用教員を探していた中学時代の恩師に声をかけられて代用教員となったのだった。四十人近くいた父の中学の同級生で高校に進学したのは三人だけだったというから、母ほどではないにしろ、父もそこそこ成績もよく当時としては家庭的にも恵まれていた方だといえるだろう。
 しかし、寺を継がすつもりの娘が五歳も年下の代用教員の男と結婚するということを祖父母は認めなかった。母の両親の許しを得ずに結婚した父は、姉が生まれるまで寺の門をくぐらせてもらえなかったという。
 大人になって父から聞かされたことだが、結婚後しばらくして祖母は父のところに離婚してくれるよう頼みに来たのだという。うちの娘は寺を継がすために大学まで出したのであって、あなたのような人に嫁がすために元を入れたのではないと、祖母は云ったそうだ。そのとき父が、もし生活が困窮したときにはどんな仕事をしてでも母を食べさせると云ったと、これは別の機会に母から聞かされた。
 その後姉が生まれ、父が通信教育を経て正式な教員免許をとり、そしてわたしが生まれる頃には祖父母も父を認めるようになった。祖父は四人の娘たちの夫の中で最も父を信頼するようになり、死ぬときは父に懇ろに後のことを託したという。
 祖父が死に、後継ぎがないため寺にいられなくなった祖母は、最初長女の伯母の家へ、それから父と母の建てたわたしたち家族の家へ来ることになり、そこで最期をむかえた。

 その祖母が一時期精神病になって、徘徊をするようになり、あるとき行方不明になってしまったことがある。
 わたしはそのときのことを覚えていないが、後で聞くと祖母は生まれ故郷の西尾まで来ていたのだそうだ。その頃の祖母は幻覚を見るようになっていて、そこにいない人と会話をしたり、庭の石の上にみかんを供えて拝んでいたりする姿を小学生だったわたしも見たことがある。
 あんな状態の祖母が和歌山からこの愛知県の西尾まで来たことに驚かされる。交番で保護された祖母は何も身分を示すものを持っていなかったが、運良く掛かりつけの医院の薬を持っていて、その薬袋に電話番号が書いてあったので、西尾の交番から医院に問い合わせがあり、医院から家へ連絡がはいって、祖母の居所が知れた。
 「おばあちゃん、こんなとこまでよう来れたなあ」はそのときのことを云ったのである。(続く
 

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