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連載小説『私の 母の 物語』二十 (85)

 それを聴いて胸のつかえが下りた。わたしは恩師が小学部の校長に就いたとき、もう無理だと思った。小学部の立ち上げというような負担の大きな仕事を恩師に課さないでもらいたい。これ以上は命を削ることになる。退職の日に恩師が救急車で病院に運ばれたと聞いたとき、あれほどの苦労の末に謝辞も賛辞も聞けず学園を去ることになったのはあんまりだと思った。小学部の校長を引き受けずにそのまま定年退職していたらと歯ぎしりする思いだった。
 しかし、恩師の決断は正しかったのだ。恩師は教師としての本懐を遂げられたのだ。
 酒が旨かった。
 最後のデザートを食べて夕食を終えようとするとき、恩師は云った。
「この子を子どもの頃から見てきて、どんな家庭で育ったかはだいたい想像できた。今日こうして家族とお会いして、わしが想像したとおりの家族だった」
 倉吉駅で別れるとき、恩師は入場券を買ってホームまで見送りに来てくれた。
「また、訪ねてまいります」とわたしは云ったが、恩師の顔は心なしかさびしそうであった。
「米田先生とお会いするのもこれが最後やろなあ・・・・・・」
 電車が動き出すと父がしみじみ云った。わたしはふと「さよならだけが人生だ」という井伏鱒二のことばを思い出した。

  花に嵐のたとえもあるさ
  さよならだけが人生だ

 これは鱒二が訳した晩唐の詩人于武陵の『勧酒』という詩の一節だという。学生の頃、茶道のサークルでよく利用していた『茶房』という喫茶店に鱒二のこの書がかかっていたのを思い出す。
 しかし母には感傷はない。
「これから何処へ行くんよ?」
「皆生温泉にもう一泊しに行くんよ」
「もう一泊って、何処ぞで一泊したかえ?」
「三朝温泉に泊まって、さっき宿から駅に来たとこやいしょ」
「三朝温泉に何しに来たんよ?」
「米田先生に会いに来たんよ」
「ほんで会うたかえ?」
「いま駅のホームで別れたとこやで。おかちゃん、米田先生と握手したで」
「そやったかな? わたしやもうわすれてしもたよ」
 わたしの記憶では、茶房の書は「サヨナラダケガ人生ダ」と片仮名書きになっていた。母の別れにはひらがなの「さよなら」よりもカタカナの「サヨナラ」の響きがある。
 今の母には、目の前から消えた人は、会わなかった人だ。

  これでいいのだ。

 ふと恩師の声が聞こえた気がした。恩師の退職の挨拶状には自分の長い教員生活を振り返って、この『天才バカボン』の台詞の心境だと認められていた。
 これでいいのだ。わたしも思った。これからも母は日々の出来事に「サヨナラ」しながら生きていく。どんな喜びもどんな哀しみもわずかな時間で消し去りながら。
(天才バカボンだ・・・・・・・)
 母の頬にバカボンと同じような渦巻きが見えるような気がした。(続く

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