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連載小説『私の 母の 物語』三(20)

 このときすでに母はわすれるひとになり始めていた。いま思うと母が父と離れてわたしの家に寝泊まりするようになった頃から、ゆっくりとそれは進行していたのだ。
 ある日、本棚の引出しを開けると、そこに食べかけのバナナがあった。
「こんなとこにバナナ入れとくなよ!」
「え? そこへバナナ入っとったか? なんでそんなとこへ入れたんやろな。ははは」
「もう何処でもかめへん手近なところへすぐ物置くんやから」
 腹を立てながらも半分わたしは面白がっていた。これがわたしの母だと思っていた。日頃から粗忽なところがあったし、家族の者が思いもよらない発想をすることも多かったから・・・・・・。

 小学校の教員をしていた頃、父は本校勤務、母は分校勤務が多かった。山あいの小学校で、本校は給食があるが、分校は給食がない。最初は母も自分で自分の弁当を作っていたが、それがご飯に漬物や佃煮だけといった簡単きわまりないものだった。自分の弁当なら、母はそれでかまわないのである。もっとも料理が得意でなかったせいもあるかもしれない。
 父にはそれが気にいらない。生徒たちの前でそんな手抜きの弁当を開くのは教育的にもよくないという。それから母の弁当は父が作るようになった。父は料理が好きで、炊事をあまり苦にしなかった。高校の頃下宿で自炊生活をしていたというから、その経験が糧になっているのかもしれない。
 ところが、その弁当を母がまたよくわすれていくのである。父は何回か、分校の地区を回る郵便屋さんに母の弁当を届けてもらったという。田舎なので顔見知りも多く、そういうことが可能なのである。郵便屋さんに弁当を届けてもらったら恥ずかしくて用心しそうなものだが、その後も母は何回か弁当をわすれていったらしい。そういうことに頓着しないのである。
 いつだったかわたしが動物園で買ってきたクマのパペットを置いておいたら、母は中にぼろ布を詰めて手の差入れ口を糸で縫ってしまった。「これ中に手ぇ入れて動かすようになってたんやけど・・・」と云うと、「そうかよ。わたしやこのクマ腹減ってへなへななんやと思て、かわいそうやさけお腹いっぱいにしちゃろと思たんよ」と笑った。そうして腹に布を詰められたパペットは、元からそんなぬいぐるみであったかのように見えた。わたしはそのぬいぐるみに『まんぷく』という名前をつけてリビングに飾った。
 またあるとき母は、「ねえ、太陽ていうもんはこの世に一つしかないんか?」と尋ねた。「宇宙全体では太陽みたいな星はたくさんあるっていわれてるけど、地球にとっての太陽は一つやで」と答えると、母は意外な顔をして、「そうかよ! わたしやまた日本には日本の太陽は、アメリカにはアメリカの太陽はあるんかと思とったよ」と真顔で云った。

 そんな母であったから、わすれるひとの兆候を見せ始めた当初は、いつもの天然の行動だとばかり思っていた。
 実際いつから母がわすれるひとになっていたのかは定かでない。ただ、この頃の母の身辺ではこころの重荷となる出来事がいくつか重なったことは確かである。
 まず父と一緒にわたしの住む家に住民票を移して、故郷と切れてしまったこと。父が前立腺癌の摘出をしたこと。わたしが十年勤めた専門学校を辞めて私塾を始めたこと。姉夫婦が大分県に転勤になり今までのように頻繁に訪ねてこられなくなったこと。どれも母の心労の種となったことであろう。(続く

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