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連載小説『私の 母の 物語』十七・十八 (78)

 自分の意志で故郷を離れたわたしが、祖国のために戦い、やむを得ぬ次第により胡地で一生を終えねばならなくなった李陵に自分を重ね合わせることは許されないかもしれない。しかし、わすれるひとになった母を蘇武に重ねることは許されてよいと思う。母はあの町で生まれ育ち、師範学校や大学のときに一度町を離れはしたが、人生の大半をあの町で過ごしたのである。生家の寺こそ今は他人が住んでいるが、父と二人で建て、三十数年暮らした家のある土地が、母にとっての故郷である。
 目覚めたときには記憶に残っていないこの無意識のつぶやきこそが、母の本当の気持ちだとわたしは思った。それこそ蘇武の中に李陵が見出した抑えようとしても抑えられない純粋な感情だと思った。
「おかちゃん家へ帰りたいよぉ」
 再び母のことばが蘇ってくる。わたしにとってこの場所は故郷とはいえないが、家とはいえる。しかし、母にとってこの場所は家でさえない。もう帰る家もない。
 もっともこの思いは穏やかな日々の時間が作りだしているものかもしれない。母の無意識のつぶやきも、日付や曜日や季節をたびたび問われることも、月に一度か二度母が何処かにしまい込んだ入れ歯を大捜索するといったことも、父も母も不調を抱えながらも息災で、暮らしが平穏であることの裏返しともいえた。

                 十八

 年が明けた一月の末、わたしが仕事から帰ってくると、家の中に何となく落ち着かない空気が残っていた。
 「今日はびっくりしたよ」と父が云う。母が洗面所で転んで後頭部を打ったのだそうだ。幸い、こぶが出来たくらいで大事はなさそうだったが、翌日念のためかかりつけの医院に行って診てもらった。すると、頭というものは打撲してすぐには症状が現れにくいものなので、いま特に問題がなければしばらく様子をみましょうとのことだった。
 この十日ほど前父から、わたしがこれまでお世話になった人に会う場を設けてくれと云われていた。高校時代に下宿させてもらった家のおじさん、おばさんやわたしの中学・高校時代の恩師と会って礼がしたいという。
 父は人生の終い支度を考えはじめたようであった。死ぬまでに今までお世話になった方々に会ってお礼を云っておくつもりらしい。
 高校時代に下宿させてもらった家は、井上の祖父の妹、わたしからすると大叔母の嫁ぎ先である。わたしがお世話になった高校生の頃、大叔母はすでに亡くなっていて、ご主人とその息子夫婦、孫たちが暮らしていた。わたしが西浦のおじさんと呼ぶ大叔母の子息は父と従兄弟にあたり、ほぼ同じ世代である。
 中学・高校の恩師のほうは、わたしの母校の藤田学園を定年退職後、故郷の鳥取県の倉吉市に帰って暮らしていた。わたしが塾を始めるとき、母校の非常勤講師の話をもってきてくれたのはこの恩師であった。三年前わたしは恩師の誘いで一度倉吉を訪れていたが、そのときに恩師から一度父にも会いたいから、今度は父と一緒に訪ねてくるように云われていた。しかし、そのとき父は会いに行くとは云わなかった。今年になって急に気持ちが変わったのは、やはり父も《余生》というものを意識しはじめたということであろう。
 いつか、いつかと云っていると時宜を逃すから、とにかく今年のうちに会えるように連絡をとれと急かされて、わたしは西浦には二月初旬に、恩師には三月下旬にお会いしたいとの連絡をいれた。(続く

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