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連載小説『私の 母の 物語』十 (56)
母はときどき「おかちゃんまだ生きてやなあかんか?」と問う。そんなときどう応えていいか分からず、「生きてたら何かええことあらよぉ」と応じる。しかし、こんなことばがいまの母にとって空疎なものであることは言うまでもない。
喜びの余韻はなく、身体のつらさ(母は身体がつらいとき「もう死んだほうがましや」と云う)、身内の気がかり(母はねえ伯母が亡くなったことをときどきわすれるので「ねえやちゃんとやりよろかの?」と訊くことがある)、故郷を離れたさみしさ(夜中に目が覚めると「おとちゃん、はよ家へ帰ろらよ」と云う)、息子の将来への心配(母は夜中に起きて「幸彦に嫁をもらってやらなんだ。かわいそうなことをした」と泣くこともあるらしい)が平穏な日常の中に泡沫のように浮かびあがる。
もしかしたらどこまでもいまをわすれるひとになって、家族のことさえわすれて過去の懐かしい物語の中で生きるようになったほうが、母は幸せなのではないか? と考えることもある。しかし、わたしたち家族にはいまの段階でそれを母の幸せと考えることは出来そうもない。
少しでも症状が進まないように、いつまでも目の前にいるわたしたちと同じ物語の中に生きて、楽しいこと・うれしいことを共有したい。心情的にはそうだ。だが、この心情の中には母の幸せよりも自分たちの幸せを願う気持ちがいくらかは混じっていないか? 母の幸せイコール家族の幸せと本当に言い切れるのか? 結局これは、父の幸せの物語、姉の幸せの物語、わたしの幸せの物語と母の幸せの物語のせめぎ合いではなかろうか。
《いのち》は誰のものだろう? 自分ではどんな生き方がしたいかも、どんな死に方がしたいかも云えなくなったとき、それを決めるのは他人になる。そのうような《いのち》は《自分のいのち》といえるのだろうか? それはすでに《自分以外のもののいのち》ではないだろうか? 《いのち》の所有権をなくしてしまった人が生きる、その人自身にとっての意味の何だろう?
《生きている》とはどういうことだろう? 仮にいま《生きている》ということを、この世に存在し自分以外のものに何らかの作用を及ぼすことと考えてみる。しかし、死んだ人間だって記憶の中に存在し何らかの作用を及ぼすことは可能だから、存在や作用では《生きている》ということは定義できない。そもそも存在や作用というのは、自分以外の《他者》についていえることで、《自分》にとっての《自分》にはいえないことかもしれない。
《自分》が《生きている》とはどういうことか? いや、その前に《自分》とは何か?
ここまで考えが漂流して、ふとこれは中島敦が囚われた懐疑だったということを思い出す。
散歩から帰って中島の全集を開くと、『狼疾記』に次の一節があった。
併し、彼は、他人から教えられたり強ひられたりしたのではない・自分
自身の・心から納得の行く・「實在に對する評價」が有ち度かつたのだ。
文芸評論家の中村光夫は、「中島敦論」の中で、この『狼疾記』をはじめとする中島の身辺小説に展開される自己反省自己呵責は結局のところ《観念の遊戯》だと論じている。(続く)