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連載小説『私の 母の 物語』十三 (68)

 ところが三歳の頃今度は盲腸炎にかかった。山あいの医院では手術が出来ないということで和歌山市内にある病院まで連れていったが、たまたまそのとき急患が入り、姉の手術は後回しになった。夜になってやっと手術をしてみると、腹膜炎になって腸に穴があいていた。手術は無事済んだものの助かるかどうかは運次第ということだったらしい。痛がって暴れるのでベッドから落ちないように看護婦さんたちの詰め所の畳の部屋を借りて、そこを病室代わりに使わせてもらったそうだ。父は夜になると病院の屋上に出て、どうか光を助けてくださいと星に祈った。三日三晩、父と母は食べることをわすれていたという。
 わたしはまだ赤ん坊で、目を離すと病院の廊下を這っていたそうだ。手術の五日後、姉の寝ている部屋で赤ん坊だったわたしが初めて立ち上がった。と、思いきやすぐにころんと畳の上に転がった。それを見て姉がけらけらと笑ったのだという。ちょうど回診に来た医者がその様子を見て、やっと峠を越したと云ったそうだ。

 幼い頃に死んでいたと思えば、たしかに五十年近くも生きたことはそれだけでも有難いことではある。しかし、母にはそう思えないのである。
 わすれるひととは、過去の思い出の中に生きる人だとわたしは想っていた。しかし、母はそうではなかった。母は《いま》を生きる人である。死んでしまった人が今を生きていることになっていたり、姉が今も小諸にいることになっていたり、中学生の佛が中年のわたしと酒を飲んでいることになったり、母の中では過去と現在の糸が縦横に紡がれ《いま》の物語として目の前にある。それには母の場合、最近の記憶だけでなく、昔の記憶もかなり曖昧になってきていた。母にとって《いま》が物語であるように、《過去》もまた紡ぎ直される物語なのである。ならば、過去を振り返って、いまの幸せを思えなどということは、父やわたしの押しつける物語でしかない。
 娘には子どもがいない。息子には嫁がいない。過去と現在の糸をどんなに紡ぎ直しても、母の物語の中でこれだけは変わらないようだ。

 姉の子どもはともかくわたしの結婚はまだ可能性がゼロではない。中年の小太りの・禿頭の・金なし・じじばば付きという「申し分のない」条件ではあったが、世の中に「縁」というものがあるなら、どこかに間違いをおかす女がいるかもしれない。
 一年前からお地蔵さまに祈り続けた人には手紙を書いた。一年間彼女の幸せを祈ってはみたが、結局彼女と結婚したいという思いは純粋に彼女を求めてのことなのか、それとも母を喜ばせたいがためなのか、自分でもはっきりとは分からなかった。なのに、もう待てないと感じたのは震災が影響していたかもしれない。震災から強い影響を受けたという友人・知人は、わたしの周りにも少なくない。被災地にボランティアに行った友人もいる。対岸にいるわたしの場合、震災がきっかけで唯一起こした行動は、彼女に手紙で二度目のプロポーズをしたということだけである。(続く

 

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