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連載小説『私の 母の 物語』 八 (47)

               八

 その年の盆休みも姉夫婦がわが家に来てくれた。姉の夫の茂樹さんは長い休みがあるといつもそれを半分に分けて、尼崎の自分の実家とわが家の両方に帰省してくれる。
 もともとは酒が弱かったが、わが家に来るたびに父につき合わされるので、この頃はだいぶ手があがった。姉は父に夫を酒飲みにされてしまったと嘆くが、日頃の義兄は週末に少し飲むくらいで会社での飲み会にも新年会や忘年会、歓迎会などの節目以外はほとんど出ない。つき合い以外でも毎日晩酌を欠かさない父や、大学生の頃や初めて勤めた電気機器メーカーで営業職をやっていた頃毎晩のように飲み歩いていたわたしからすると、この程度は「酒飲み」というほどでもない。

 義兄の父親は事業のためにあまり家庭を顧みなかったので、義兄は父親の温もりを知らずに育ったのだという。そのうえ義兄が高校生の頃はその経営が傾き、義兄は夜学の大学に入学して働きながら勉学した。工学部を卒業した義兄は土木関係の技術者になったが、父親には複雑な感情を抱いていて、いまも関係はぎくしゃくしているらしい。
 義兄と姉は職場結婚である。大学の国文科を卒業した姉はいったんは山あいの実家に戻り、町の教育委員会の臨時職員などをしていたが、親戚の伝で大阪の道路関係のコンサルティング会社に職を得て、その会社で義兄と出会った。そこは道路公団の天下り先のような会社で給料はよかったが、半官半民のような体質だったようだ。義兄は他の会社からの転職組であり、定時が過ぎてもだらだらと居残って残業代を稼ぐような仕事ぶりが合わなかったらしい。子どもの頃父親がほとんど家にいなかったから、自分はできる限り早く家に帰って、家庭での時間を大切にしたかったのかもしれない。
 定時を過ぎると職場の人たちは皆で社外に夕食を食べに行き、また戻ってきて仕事をする。早く帰りたい義兄は食事につき合わず、その間の時間に仕事をして皆より先に帰宅した。それを義兄の上司は職場の協調性を乱すと云って咎めた。義兄は上司と衝突してその会社を辞めざるを得なくなった。経緯上姉も会社に居づらくなって、二人でその会社を辞めた。
 その後、義兄が就職したのは派遣会社だったので、日本各地の現場に半年から三年の間隔で派遣されることになり、姉も義兄について移り住んだ。二人は子どもを授からず、子どもの心配をしなくてよいことが幸いだったが、逆に子どもがいないことで、会社からすると転勤を命じやすかったのかもしれない。

 義兄は母にやさしかった。妻の家族を自分の住まいに呼ぶなどということは気詰まりなことだと思うのだが、父と母とわたしの三人が転勤先の住まいに訪ねていったときはいつも歓待してくれた。母がわすれるひとになったとき、母よりも父が困憊しないようにと、一ヵ月ほど母に自分たちの許にいてもらおうと云ってくれたのも義兄だった。わが家に来て、三、四日滞在すると、散歩のついでにいつも父やわたしと飲むときの酒のつまみと、母の好きな甘いものを買ってきてくれた。(続く

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